毎年のことながら、今夏も原水爆禁止世界大会の季節となって、猛暑にめげず、沢山の人々が日本国内だけでなく世界中から広島へ、さらに長崎へ集まった。多彩な催しの中で同感したいのは広島市平和記念式典での子ども代表の「平和への誓い」である。 「平和への誓い」といえば、反戦=平和をイメージするのが通常だが、そうではなく新鮮な平和観が打ち出された。「平和とは、みんなが幸せを感じること。平和とは、わたしたち自らがつくりだすもの」という平和論である。若い世代の平和観がどのように根付いていくか、その行方に注目したい。
8月6日の広島市平和記念式典では市内のこども代表が「平和への誓い」を読むのが慣例となっている。今年は竹内駿治君(広島市立吉島東小学校6年)と中森柚子さん(広島市立口田小学校6年)が代表に選ばれた。以下「平和への誓い」を紹介したい。その内容(しんぶん赤旗・8月7日付参照)は次の通り。
今でも逃げていくときに見た光景をはっきり覚えている。当時3歳だった祖母の言葉に驚き、怖くなりました。「行ってきます」と出かけた家族、「ただいま」と当たり前に帰ってくることを信じていた。でも帰ってこなかった。それを聞いたとき、涙が出て、震えが止まりませんでした。 68年前の今日、わたしたちのまち広島は、原子爆弾によって破壊されました。身体に傷を負うだけでなく、心まで深く傷つけ、消えることもなく、多くの人々を苦しめています。
今、わたしたちはその広島に生きています。原爆を生き抜き、命のバトンをつないで。命とともに、つなぎたいものがあります。だから、あの日から目をそむけません。もっと知りたいのです。被爆の事実を、被爆者の思いを。もっと、伝えたいのです。世界の人々に、未来に。 平和とは、生活できること。平和とは、一人一人が輝いていること。平和とは、みんなが幸せを感じること。
平和とは、わたしたち自らがつくりだすものです。そのために、友だちや家族など、身近にいる人に感謝の気持ちを伝えます。多くの人と話し合う中で、いろいろな考えがあることを学びます。スポーツや音楽など、自分の得意なことを通して世界の人々と交流します。 方法は違っていてもいいのです。大切なのは、わたしたち一人一人の行動なのです。さあ、一緒に平和をつくりましょう。大切なバトンをつなぐために。 2013年8月6日
<安原の感想> 平和とは、自らつくりだすもの
「平和への誓い」で特に注目したいのは、次の一節である。 「平和とは、生活できること。平和とは、一人一人が輝いていること。平和とは、みんなが幸せを感じること。平和とは、わたしたち自らがつくりだすものです」と。
ここには含蓄に富む認識、表現を見出すことができる。われわれ大人の多くは、ややもすれば<平和=反戦>と捉えてはいないだろうか。すなわち戦争のない状態が平和なのであり、戦争さえなければ、世の中は平和であるという受け止め方である。特にあの敗戦と共に終わった大戦の経験者にこういう発想が多いように思う。
これはこれで決して無意味と言いたいわけではない。安倍政権の登場と共に、現行憲法9条(戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認)の理念の骨抜き、日米安保体制の強化、すなわち戦争をも辞さない姿勢がうかがえる。このような安倍政権の安易な姿勢に対して<平和=反戦>の旗を掲げる意味は決して小さくはない。
しかしこの平和観はいかにも視野が狭い。日常生活の平和という感覚からほど遠いのだ。子どもたちが提起している平和観はまさに日常生活の平和の実践にほかならない。子どもたちの表現を借りると、「生活できること」、「一人一人が輝いていること」、「幸せを感じること」、言い換えれば借り物ではなく、「自らがつくりだすもの、すなわち平和」なのだ。だからこそ「一緒に平和をつくりましょう」という呼びかけにつながっていく。 私(安原)はそういう子どもたちを信じて、平和な日本の未来に希望を託したい。
*「安原和雄の仏教経済塾」からの転載
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