僕が滞在しているパリ18区、モンマルトル地区はすぐ裏手にピカソが若い頃暮らしたアトリエ「洗濯船」の跡地や、カフェ「ムーランルージュ」などの跡地が多数残されており、散歩をするとあちこちで各国からの団体旅行客と彼らに説明する案内人の姿を目にする。作家マルセル・エイメの「壁抜け男」にちなんだ半身の銅像が壁からにゅっと出ているのもこのあたり。そこから石段を下ってぶらぶら歩いていると、一軒の書店に出会うことになる。
L'Attrape-Coeurs(ラトラプ=ケール)という名前の書店だ。一見何気ない小さな街の書店なのだが、入ってみると意外と奥行があり、本も人文書・文学・芸術書・詩集・映画関係・戯曲から奥には多少のBD(漫画)や児童書もある。といってもなんでも売れるものは売る、というのと違って定番の古典や人文書などはきちんとあり、本を売る店の姿勢が感じられる。つまり書店主が自分ですべての本を選んでおり、そのセレクションが隅々まで行き届いているということだ。
レジに立つ女性がオーナーだろうか?何人かの客と店の女性スタッフらが歓談していて、外見ではわからない活気があることがわかった。乳母車を引いた母親たちもしばしば入ってくる。棚には床から天井まで文字通り本棚があり、天井近くの本を手にするためのはしごがかけられている。僕はいつもこのはしごに登っている。
初めて入った書店の場合、どこの国でもそうなのだが、長く店で棚を眺めて見入ってしまう。どんな本がどの棚に置かれているのか、その地形図を頭に入れておこうと思うからだ。僕の場合、本が読みたくなると、どの書店のどの棚にあったかがまず浮かんでくる。アマゾンに比べると、実にローテクな検索法だ。
そうしていると、くだんの女性店主らしき女性から「もし何かお探しの本があれば遠慮なく言ってくださいよ」と声をかけられた。「本が好きなもんですから、棚に見入ってしまうのです」と答えると、「わかります。私もそうなんです。でも必要があったらいつでも声をかけてください」
その日買ったのはガリマール社から出ているハンナ・アレント著「文化の危機」(La crise de la culture)という文庫本だった。本当はレーモン・クノーの短編小説「青い花」が収録されている短編集を買いたかったのだが、この本は残念ながらなかった。
パリの地元新聞「パリジァン紙」にこの書店の記事が出ていた。’L'Attrape-Coeurs resiste a la crise’(書店のL'Attrape-Coeursは危機に立ち向かう)
http://www.leparisien.fr/paris-75/paris-75002/l-attrape-coeurs-resiste-a-la-crise-04-02-2013-2537821.php 今、世界的不況の影響で日本と同様、パリでも書店は経営が厳しくなり、店を畳むところも増えている。そんな逆風に逆らって、このラトラプ=ケール書店はあえて新店を今年2月、パリ15区の商業地区に出したとある。家賃はモンマルトルの2倍かかるため、店はモンマルトルの半分の広さだそうだ。それでもあえて賭けに出たのだ、という。
記事によると、この書店は11年前に2人の女性共同経営者によって設立された。シルビー・ロリケー(Sylvie Loriquer) さんと エリカ・ムニュ(Erika Menu)さんだ。そして今年2月、15区に二店目を出したという。出店調査に2年かけたというから、よほどの決意をもってのことに違いない。
またパリジアン紙によると、新店には子供の本を専門とするヴェロニクさんという女性がいて、児童書のセレクションを担当しているほか、毎週土曜の午前11時から30分間、3歳児から5歳児に向けた絵本の朗読会を開いているそうである。
この日、店にいたのは共同経営者の一人、エリカ・ムニュさんだった。パリジャン紙の記事では新店の広さは半分くらいと書かれているが、実際にはこの旗艦店とそう変わらない広さだという。ムニュさんによると、パリの小さな書店にとって大きな意味を持ったのが1981年、当時ミッテラン政権で文科相をしていたジャック・ラングが創設した法律で、どの書店でも本の販売価格は統一しなければならない、というものだった。
「この法律のおかげで、大手書店チェーンがダンピング商戦をしかけることができないので、街の小さな書店でも利益を出せるのです。もし本がカルフールのように大量仕入れ、大量販売の商戦になったら、生き残っていくのが難しくなるでしょう。」
しかしながら、ムニュさんによると、この法律をかいくぐっているのが本のネット販売だそうだ。ネット販売では価格が同じでも、買うと本を1冊サービスするようなキャンペーンが行われている。これは実質的な安売りにほかならない、とムニュさんは指摘する。
散歩がてら後日、もう一度訪ねると、今度は別の女性がレジに立っていた。経営者の一人、シルビー・ロリケーさんだった。土曜日ということもあるのだろうが、客が次々と入れ替わり立ち代り訪ねてくる。ロリケーさんに聞いたところでは、最初は女性二人でオープンしたが、現在は女性の3人体制で経営しているのだそうだ。ロリケーさんはこの日はモンマルトルの店にいるが、主に15区の新店を担当しているのだそうだ。
「新店は美しいですよ。ぜひ一度立ち寄ってください」
この日買ったのはフローベールの奇想的な小説「ブヴァールとペキュシェ」(Bouvard et Pecuchet)の文庫版だ。
ところで書店名のL'Attrape-Coeursとは心を捕まえる、あるいはハートをつかむ、という意味になるだろうが、アメリカの作家サリンジャーの小説「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(ライ麦畑の捕まえ手)のタイトルの仏訳がL'Attrape-Coeursである。店名からも文学にこだわっていることがうかがえる。
L'Attrape-Coeurs (住所) 4 Place Constantin Pecqueur ,75018 Paris (開店時間) 火曜〜土曜 10時半〜20時 日曜 15時〜19時
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