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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2013年10月03日13時11分掲載
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地域
【安房海より】館山にあった海軍砲術学校 田中洋一
天気が良ければ伊豆大島を目の前に望む房総半島の南端。もの静かな農村の一角に戦中、1万人前後の将兵が常駐し、厳しい訓練を積んでいた光景は、とても思い浮かばない。
館山海軍砲術学校がその施設だ。かつての正門前の道路を車でよく走っているが、それと教えられるまで全く気づかなかった。かつての構内に今では田んぼが広がり、住宅が点在する。中央を貫く道路が異様に太く、区画の縦横が真っすぐに道路で仕切られていること以外は、どこにでもある農村のように見える。
館山には旧海軍の施設が多い。1930年に開設された海軍航空隊は、現在も海上自衛隊ヘリコプター基地として運用されている。だが砲術学校は敗戦直前に消えた。約20haもの広大な敷地に立っていた兵舎や車両庫、神社でさえもどこかへ行ってしまった。どんな学校だったのか。ここで教育・訓練を受けた予備学生(いわゆる学徒兵)の手記に目を通すと、娑婆との別世界ぶりが浮かんでくる。
開設は太平洋戦争開始の半年前の41年6月。陸戦・対空・化兵の3班(科)があった。化兵とは化学兵器のこと。毒ガスの訓練は行われていたが、大事故に至ったとの証言は得られていないという。実戦でどう活かされたのか、気になるところだ。
日米開戦を機に、海軍は航空をはじめ兵科(航空以外)に携わる将兵の養成に迫られる。館山砲術学校に予備学生の姿が目に見えて増えたのは43年だという。明治神宮外苑競技場で出陣学徒の壮行会が雨の中で行われたのは、この年10月21日だ。「この年から予備学生と出会うことが多くなった」と83歳の山口栄彦さんは語る。砲術学校の近くに育ち、旧制安房中学(館山市)に自転車で通う途中、予備学生の隊列と出会うようになったという。
その年の暮れ。日曜に家の庭にいたら、3人の予備学生がやって来て、「お兄ちゃん、家に入れてくれないか」。山口さんの母親が「いいよ」と答えた。白米を炊き、漁村だから刺し身を出した。「たくさん食べたよ。腹が減っていたのだろう。日曜の度にやって来て、そのうちお礼に10円を置いていった」と山口さん。
親しくなった中学制服姿の山口さんと海軍制服姿の予備学生のツーショットが残る。町の写真屋で撮った記念写真だ。翌年の春だったか、「出陣します」と挨拶に来た予備学生がいる。緑色の戦闘用の服で、日本刀を下げ、戦闘帽を被っていた。
山口さんは大切に保存してきた資料で砲術学校の展示会を10日から地元の公民館で開く。例の写真や遺族提供の手紙類、造成に携わった軍属による砲術学校の見取り図など数十点を展示する。今のままでは名実ともに消えかねない砲術学校。「この地にあったことを若者に知って欲しい。ここから戦場に赴いた予備学生の思いをとどめたい。本当は資料館を建てたい」
田中 洋一
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