パリ19区にアトリエを構える画家のトリスタン・バスティ(Tristan Bastit)氏を訪ねた。バスティ氏はフランスでは巨匠に入る人だが、若い頃から中央画壇やアカデミズムには背を向け、独自の歩みを続けてきたと聞く。
ベルヴィルという地下鉄の駅を出ると、あたりはチャイニーズとベトナム人がたくさんいる街であることに気づく。アトリエは2階。初めて訪ねると、バスティ氏は一人昼食のパスタを食べていたところだった。だが、偉ぶるところはみじんもなく、快く迎え入れてくれた。写真で見ると威圧感があるのだが、会ってみると実に気さくな人だ。
棟の2階には2つの部屋があり、向かって左がバスティ氏の住まい、右がアトリエになっている。職住近接とはこのことだ。アトリエにはたくさんの油絵があり、映画で見る画家のアトリエそのものという感じだ。
「昔はもっと広いアトリエだったんだよ。区も15区でね。でも、年々家賃が高騰してだんだん狭くなってきた。だから、こうして絵の具のパレットに使っている台なんかも移動できるものなんだ。部屋を有効に使えるからね」
絵画は風景画や静物画のようでもあるが、形も色も原型がわからないくらいに抽象化され、変形している。その何かしかとわからない色と形を見るのは決して退屈ではない。そればかりか、いつまで見ても、真相がわからないためにかえって、いろんな想像をめぐらせることができる。しかも、極めて洗練されて、粋な絵画だと思う。
バスティ氏の絵画は抽象画に属する。1960年、ソルボンヌ大学文学部に通っていた頃、薫陶を受けた師がアンリ・ギューツ(Henri Goetz)だった。ピカソ、ミロ、カンディンスキーなどと交遊した抽象画家である。当初はギューツ氏から版画を勧められて制作したが、後に油絵に転じた。当時のパリはアカデミズム糞くらえ、ボザール糞くらえ、という時代だったそうだ。
「あの頃、世の中には多くのイデオロギーが跋扈していた。イズムがたくさんあった。あの頃何かと言えば、Il faut....と言っていた。「〜しなければならない」と話す人がやたら多かったんだ。でも、<自分が・・・せよ>じゃなくて、常に何か義務的にしなければならないのは<君>とか<お前>なんだよ。こういう精神はごめんだった。」
その代わりに、バスティ氏は作家アルフレッド・ジャリが提唱した「コレージュ・ド・パタフィジック」という、反常識の世界観を重視する前衛芸術・文学集団のメンバーになった。
「僕の絵は現実をなぞらえたものじゃない。現実の中にある力が潜んでいて、その力が殻を破って出てきたものが僕の絵なんだ。」
そう言って、バスティ氏は自分を庭師にたとえた。庭師は種を撒く。しかし、芽を出し育つのは種の内部の力だ。それらの力を引き出しながら、自分の庭を作り上げていく。これがバスティ氏の仕事だという。その中には深層に潜む人間の欲望や不安、悪意を先取りして形にすることもあるだろう。だが、絵画だからいかなる印象も不安も、欲望も最終的に色と形に変換されて画布に出力される。その変換の過程で現実の事物と違うものになる。
70年代にアメリカを何度か旅してみたという。戦後、アメリカの文化がパリの文化をしのいで世界の頂点に立とうとしていた。しかし、アメリカに行ってみると、金儲けがすべての基本になっている社会に幻滅し、パリに骨を埋めることになった。
娘が一人、すでに巣立っている。テレビは10年前に捨てた。インターネットは使うし、ラジオも聞くがテレビは見ないという。テレビ広告は「消費順応主義」(conformism commercial)を煽っているというのだ。消費順応主義とは他人が買うから自分も買う。それが雪だるまのようになって100万人が買う、というような消費主義だという。テレビを見る代わりに人に会って話をしたり、食事をともにしたりする。
パリでは家賃は上がるし、画廊は消えつつある。それでも、バスティ氏のような芸術家はまだパリにはいるようだ。
■バスティ氏のウェブサイト
http://www.tristanbastit.fr/plan.php
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