ロシアを旅した時、日本のある大手メーカーの現地職員を工場に訪ねたことがある。その工場はソ連時代の国営工場だったものを日本企業が買収して、日本人の経営者と技術者を送り込んで新たな製造ラインを稼働させていたものだ。その時、日本人のマネージメント担当者はロシア人の労働者についてこんな発言をした。
「ロシア人は非常に勤勉ですよ。かつてロシア人は怠け者、というイメージがありましたが、決してそうではありません。ただ・・・」
彼はこう続けたのだ。
「ロシア人は自分でリスクを取って何か率先してやろう、というような精神は乏しいですね」
何事も自発的に取り組むのでなく、上司の指示があって初めて動くのがロシア人の労働者のメンタリティだというのだ。驚くべきことだが、それには歴史的な理由がある。
ロシアでは共産党一党支配のソ連時代が70年近く続いた。いつどんな理由で逮捕投獄されるかわからない。実際にスターリンの時代には大量の知識人が粛清されるか、シベリアの強制収容所に送られている。しかも独立心に富み、国を愛し、知性や想像力にあふれた人々が真っ先に収容所に送られた。こうしたわけで、ロシアではできるだけ目立たないようにしよう、というメンタリティが精神の基盤になってしまったようなのだ。ソ連が崩壊した後も、新生ロシアの経済は石油やガスなどの資源を別にすると、今ひとつぱっとしない。労働者はまじめであるにもかかわらず、である。70年しみついたメンタリティを変えるのは楽ではない。
安倍政権が成立させようとしている特定秘密保護法案も究極的にはソビエト型官僚主義時代の始まりと言えるのではないか。秘密が何かわからないことは国民の真実探求への道を封じるものである。それはまさにソビエト化への道であろう。あの時代のソ連の代表的新聞は「プラウダ」(真実)という名前だった。だが「プラウダ(真実)」は真実よりもソ連共産党の見解を伝えるメディアだった。安倍政権の特定秘密保護法案が可決されれば今後はジャーナリズムが役人の腐敗を追求することも不可能になる。これも日本のソビエト化を進める大きな要因である。ソビエトはその高邁な理想とは裏腹に役人への賄賂が横行する役人天国だったからだ。ソ連で一部のエリート役人とその子弟だけがこの世の春とばかりに出世コースを独占し、贅沢三昧するのを見たらマルクスは悲しんだだろう。ジャーナリズムから腐敗を追求されることもなくなった官僚は新しい貴族になったのである。
問題はジャーナリズムだけではない。市民が健全な精神を失えばいずれはソ連と同様に国民経済も停滞するはずである。デフレ時代の日本人のメンタリティは<できるだけ買わないでおこう、買うとしたらできるだけ後で買おう>というものだった。もし特定秘密保護法案が可決された後は次のようになるのではないか。
<波風立ちそうな事は何もしないでおこう。やるとしても誰かが先にやるのを見届けて安全だったらやろう。>
これは悪しき官僚主義に他ならない。<精神のデフレスパイラル>である。しかも、今後は官僚だけでなく政治家も、メディアも、大学人や学校教師も、技術者も、一般のビジネスマンも、こんなメンタリティに染まっていく可能性がある。職業の世襲化が進んでいるだけに社会よりも一族の無事を守ろうとして、一層この傾向は顕著になるだろう。誰もリスクを取らなければ社会からバイタリティが失われていく。リスクを避け、自分の権利だけを主張する悪しきソビエト型官僚主義の停滞の時代はそこまで迫っているかもしれない。ロシアではソ連が崩壊した後も、その悪しきメンタリティを引きずり、絶望した大衆はウォッカを飲んで憂さを晴らし寿命を縮め、酒がもとで離婚が増えた。ロシア人にとって不幸だっただけでなく、ソビエト型官僚主義は日本人の精神になじまないものである。だが今安倍政権が進めているのは日本のソビエト化に他ならない。
ところで今書店でワンコインの500円で売られている第二次大戦時代のドキュメントシリーズがある。そこには戦時中、アメリカ軍の広報部門が作っていた「我らはなぜ戦うか」というシリーズがある。そこではこんな文句を掲げていた。全体主義陣営に対して我ら自由主義陣営は必ず勝利するはずである。なぜならば、自由な精神ほど強いものはないからだ。全体主義陣営の兵士は恐怖と命令によって動いているだけである。だから一度形勢が不利になるとあっさりと白旗を掲げる。しかし、自由な精神で戦っている民主主義勢力の兵士は違っているのだ、と。第二次大戦から68年が過ぎ、今ではアメリカ政府と組んでいるはずの日本政府だが、果たして本当にわが国は自由主義陣営なのだろうか。
村上良太
■山口定著「ファシズム」(岩波書店)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201307301109292 ファシズムとは何か?政治体制だが、ファシズムと一言で言っても、さまざまな体制がある。ヒトラーのナチス、戦前・戦時中の日本、ムッソリーニのイタリア、スターリンのソ連(この場合はむしろ全体主義と呼ばれている)など、左派政権もあれば右派政権もある。ナチスドイツは国家社会主義ドイツ労働者党と称していた。山口定著「ファシズム」はファシズム研究の第一人者がこの問題に取り込んだ意欲的な書である。
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