京大名誉教授の本山美彦氏が岩波新書から「金融権力」を世に出したのはまさにリーマンショックが起こり、それが欧州に飛び火しようとしていた時だった。「金融権力」で本山教授は冒頭のあたりでこう筆を起こしている。
「経済のグローバル化を推進した起動力は金融であった。」
今、グローバル化と言えば具体的な食料産業とか、農業企業とか、自動車製造会社などが思い浮かぶが、本山教授は金融こそ、グローバル化を起こした起動力だったと指摘しているのである。日本が今日の姿になった原因を遡ると、90年代に進められた構造改革というものがある。その象徴が長期信用金融機関が次々と破綻させられていった事態だ。
「アメリカからの執拗な構造改革の要請によって、日本の金融システムは根底から変えられた。」と本山氏は書いている。かつて日本では単純に儲かる儲からないだけではなく、国民経済が円滑に回るように、儲からない産業部門も倒産しないような構造を長期信用金融機関などの金融機関群が支えていた。すべての企業が儲かることだけをやろうとしたら、全体がうまくいかないというのである。これは自然のシステムを見てもそうだろう。様々な存在がつながりあってこそ共存できているのである。産業のチェーンの中にはどうしてもあまり儲からない分野もある。そこで、それらをうまく調整して全体的に発展させる仕組みが「護送船団方式」と呼ばれるものだった。それが破壊されていったのが90年代である。
「日本では、大手企業向けの都市銀行、信用金庫、信用組合、そして個人の財産形成をする信託銀行、農業振興のための農林中央金庫、農協、等々、業態に応じた各種金融機関が、金融当局の管理下で棲み分けをしていた。こうしたシステムの下で、アメリカではとうの昔に廃れた重厚長大型の基幹産業が、日本では育っていた。」
ところが、アメリカによって金融機関の自由競争と総合化が要請されたのである。80年代に日本のシステムがNO1と絶賛されていた空気がバブル経済がはじけると一変して、日本のやり方は何でも悪い、ということに今度はなった。特に日本の金融機関は競争していないからサービスが悪いと叩かれていた。しかし、町の人びとが出資し合って地場の小さな産業を育てている信用組合や信用金庫などの地域金融機関がなぜ国際的な大銀行と競争させられなくてはならないのか、理解に苦しんだものである。あの頃、どの金融機関もバブル崩壊の影響を受けて不良債権を抱えており、苦境に立たされる融資先を切るか、維持するか決断を迫られることになった。そんな非常事態と構造改革が期を一にして起きたのである。
その要となった欧米主導の金融基準であるBIS規制のことも書かれている。金融機関はユーザーからの預金と言う短期債務を使って長期貸付(つまり長期資産)を持つことは危険であるとして、株式発行による自己資本額の12倍以上の貸付を禁止するということになってしまった。これが国際決済銀行(BIS)の自己資本比率である。しかし、日本人の銀行預金は基本的に長期間に渡るのが習慣であり、それが日本の経済を発展させた原動力だった。その源を「国際基準」によって解体されてしまったのである。このBIS規制で日本の金融機関は貸し渋りや貸しはがしを強いられたのだったが、それで首を吊った経営者は多かったはずである。護送船団方式が力づくで解体させられ、重厚長大産業が次々と解体され、多くの雇用が失われていくことになった。非正規雇用が増え、人材派遣会社が林立し、若者の多くが定職を持てなくなったのである。
「そうした事態を生み出した最大の要因は、間接金融から直接金融への切り替えである」
「こうして日本では、間接金融は窒息寸前になっている。」
本書はアメリカを頂点とする「金融権力」がどのように生まれて来たのかを批判的に分析する。さらに対抗策が世界でどのように試みられているかも紹介されているのだ。安倍首相が80年代のように活力のある日本をと言った時、その日本は間接金融が活力を持っていた国だったはずである。間接金融が栄えると言う事は企業が長期間をかけて成長するのを待つだけの時間があった、ということである。そこには企業を短期的な金儲けの手段と見ず、日本の長期的な繁栄を考える金融の姿勢があったということである。企業を一軒一軒訪ねて回る地域金融マンたちはその象徴だった。そうした余裕を昭和の時代は今より多く持っていた。
筆者は90年代半ばに日本の間接金融が解体させられつつある現場を取材したことがある。その頃は金融機関同士が合併したり、倒産したりしていた。<日本の工場>である東京・大田区の数多くの町工場が仕事を失い、あるいは減らし、仕事の道具である貴重な旋盤が古道具屋に売り払われていくのを毎日のように目にした。それらは主にアメリカや中国など海外に売られていった。当時、深夜の番組を担当していた筆者は次第にこうした町の様子よりも、それを起こしている震源地を見る必要があるのではないか、という風に目が海外に向き始めたことを覚えている。長年仕事を愛してきた町のおやじさんたちが仕事を失い、道具を失う姿を見るのはつらかった。なぜそうなっているのか、もっと理解したいと思うようになったのである。だから関心は必然的に米国の金融につながっていくのだ。
本山教授には「倫理なき資本主義の時代〜迷走する貨幣欲」や「売られるアジア〜国際金融複合体の戦略」「姿なき占領」などの著書がある。これらは地道なモノづくりを捨てて、もっと簡単に一夜にして金儲けができる国際投資の方向に米国の金融が移行していった時代を描いている。その影響を受けたのが構造改革を迫られた日本であり、また韓国などの近隣諸国でもある。
本山教授の専門は金融における倫理である。メインバンク制に代表される間接金融から株式投資を中心とする直接金融に軸が移ると、実体を失ったマネーが瞬時に利回りの高い投資先を転々とするようになる。そこには投資マネーが注がれた地域産業の育成を長期的に見守ると言う姿勢が乏しい。人は誰しも事業を発展させようと思ったら余程の金満家以外は資金が不足するわけだから、金融のあり方を考えることは社会のあり方を考えることである。だから、金融の姿が異常になれば社会もまた崩れていくのである。金融の倫理という分野があることを本山教授にお会いするまで知らなかったが、今後もっと研究発展が期待される分野ではなかろうか。
米国の金融(産業)と武力は手を携えている。その貿易は海軍力に支えられている、と言われてきた。それは黒船来航からそうだったのだ。だから、グローバリズムに本格的に乗り出すためには日本も憲法第9条を捨てて、交易のある地域の安全と覇権を自ら作り出す必要があるという改憲論者が出てきた。ここでグローバリズムは軍事と結びついている。米国は国が財政破綻の淵に到るまでの多額の出費をしてなぜ「世界の警察」であろうとするのか。その理由はどこにあるのか。「金融権力」はそれを考えることができる一冊でもあると思う。
■マクロン大統領と金融界 マクロン大統領の政権の本質を理解するには本山美彦著「金融権力」が不可欠
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