先週、アメリカの政治学者ロバート・ダール(Robert Dahl 1915-2014)氏が死去した。元米政治学会会長で、98歳だった。ロバート・ダールと言えば「ポリアーキー(Polyarchy) という政治用語を用いたことで知られる。しかし、筆者が学生の頃、なかなかこの言葉には日本でイメージしづらいものがあった。「ポリアーキー」という著書を買ったことがあるのだが、恥ずかしながら何一つ記憶にないのである。そこで30年後にもう一度、ダール氏の学説がどのようなものだったのか概略だけでもつかみたいと思い、インターネットで調べてみることにした。
http://abcnews.go.com/Entertainment/wireStory/robert-dahl-political-scientist-dead-98-22408024
■「誰が統治者か?」
米ABCのニュースサイトの追悼記事によると、ロバート・ダール氏には「誰が統治者か?」(Who Governs?)と題する1961年に刊行された著書がある。この本がダール氏を理解する上で鍵になる、と言わんばかりの記事だ。ダール氏が「誰が統治者か?」を書いた時、彼はイェール大学の教授だったが、自分が所属するイェール大学のあるコネティカット州ニューヘイブンという地元ローカルタウンの地方政治の実態を研究した。そこでダール氏が発見したことは市民参加が十分に行われているとは言い難いが、一応民主主義は機能しており、政治権力は一握りのグループでなく、社会・経済・政治・人種それぞれ価値観を異にする多様なグループに分散されていた、ということだった。完全な民主主義ではないが、一応多元的な政治が〜つまり独裁政でも貴族政でもなく〜実現していた。そこには二大政党制も機能しており、ニューヘイブンは米国の政治の縮図ととらえることができる、とダール氏は考えたらしい。これがいわば「ポリアーキー」というもののモデルのようだ。古代ギリシアのような直接民主主義ではないが、様々な声がいくつかのグループを形成して、政治力を持って均衡する。一方で奴隷制もない。これが現代アメリカの民主主義だという。
■「パワー・エリート」V.S.「ポリアーキー」
このダール氏の見方はダール氏のライバルであったらしいC.W.ミルズ氏に対抗するものだったと評価されている。ミルズ(C.Wright Mills 1916-1962)氏は1956年の著書「パワー・エリート」(The Power Elite)で知られている社会学者である。ロバート・ダール教授とは1歳違いの同時代人だが、ミルズ氏が亡くなったのは1962年と若い。ミルズ氏が〜ダール氏と同様に〜見据えていたのは1950年代のアメリカである。
ミルズ氏の著書「パワー・エリート」では米政治を支配するのは一群のエリートたちであると分析されている。そこでは軍・産業・政治界のエリートたちが互いに結びついていて、米政治のみならず、世界を動かしている。だから、彼らのエリートパワーを称して「パワー・エリート」と言ったらしい。
1950年代と言えばアイゼンハワー大統領(任期1953−1961)が統治した時代である。この時代は冷戦時代だが、アイゼンハワー大統領は1961年の任期の終わりに、「米国の軍産複合体(military-industrial complex)の持つパワーはとてつもないものだ」と米市民に警告している。左翼が言っているのではない。第二次大戦中に連合軍の最高司令官だった元軍人がそう言っているのである。軍産複合体が台頭して、必要以上の影響力を持ち、民主主義を破壊するのを米国民は容認してはいけない、と別れの際に米国民に渾身の演説を行った。スピーチの起こしが以下である。
’In the councils of government, we must guard against the acquisition of unwarranted influence, whether sought or unsought, by the military-industrial complex. The potential for the disastrous rise of misplaced power exists and will persist. We must never let the weight of this combination endanger our liberties or democratic processes. We should take nothing for granted. Only an alert and knowledgeable citizenry can compel the proper meshing of the huge industrial and military machinery of defense with our peaceful methods and goals, so that security and liberty may prosper together.’
ミルズ氏によると、この軍産複合体は一握りのエリートによって支配されている、ということらしい。そこでは官民を超えて、産学官の間で互いに人材交流が図られ、また支持政党は違っても大きな意味では仲間である。かつての民主党と共和党は今日のように分裂しておらず、超党派で動くことが多かったと言われている。エリート層の子弟は優秀な大学の同窓であり、彼らはその後政財官そして軍のどの分野に進もうと、また支持する政党は分かれていようと仲間同志だということだ。
アイゼンハワーの警告を反故にするように、その次に大統領になったケネディはベトナムに介入を始め、次々と軍事顧問団を送り込み、ベトナム戦争への導火線を敷くことになる。莫大な軍事費をつぎ込み、第二次大戦の総量以上の爆薬をインドシナに注ぎながら結局敗北に終わったベトナム戦争。史上最高のエリートスタッフを集めたケネディ政権がなぜかくも愚かだったのか。これはハルバースタム著「ベスト&ブライテスト」のテーマでもある。軍産複合体の肥大化は米国没落の始まりである。
■台頭する軍産複合体と市民
ミルズ氏が唱えた軍産複合体の一握りのエリートが世界を支配しているという考え方に対して、先述のように、ダール氏は政治権力はもっと多様であり、民族的にも多様性を持つと反論したようだ。キーワードとなる「ポリアーキー」という言葉は独裁政、貴族政に対して、多数による支配を意味する言葉で、政治的「多元主義」(pluralism)と言い換えることも可能なようだ。(このあたりは筆者が専門家でないため、粗雑な理解になってしまったかもしれない。)米国は完全な理想の民主主義ではないにしてもポリアーキー、一応民主主義であるというのがダール氏の立場である。
しかし、ダール氏が「統治者は誰か?」を世に問うてから約50年。アメリカの軍産複合体はますます肥大化している。9・11同時多発テロから10年間で軍事費は倍増した。このことは、昨今の1%対99%の貧富の格差の問題にも関係してくるように思われる。「誰が統治者か?」が世に出た1960年代には全米自動車労組のような労働組合も力を持っていたし、人種間の平等を訴える公民権運動も盛り上がっていた。しかし、ベトナム戦争の失敗を経て、1981年にレーガン政権が生まれて以来、保守革命が進行し、中流層が減少した。一方、巨大企業の資金力が拡大し、政治力を増し、政治権力が次第に庶民から奪われていった。だから50年代や60年代の政治分析も、50年を経て新たに検証し直す必要があるだろう。
こうしてみるとC.W.ミルズ氏がダール氏と同様に長生きしていたら、どのような論を出していたのか、興味深く思われるところだ。
http://politicalscience.yale.edu/people/robert-dahl さて、ロバート・ダール氏にはほかにも有名な本が多数ある。’A Preface to Democratic Theory’(民主主義理論への序文)、’Dilemmas of Pluralist Democracy’(多元主義的民主主義のジレンマ)、How Democratic is the American Constitution?’(米憲法はどの程度民主的か?)などなど。
ダール氏はポリアーキーという政治概念を使って論を発表したが、その後の著書では初期の楽天的な見方に陰りがでたのだろうか?タイトルに関する限り、暗くなっていくようである。だから、ミルズ氏の夭折によって書かれることなく終わった想像上の’著書’と、ダール氏のその後の著作を合わせて読んでいけば興味深い読書になるかもしれない。
■社会学者の反論
ABCニュースのサイトによると、ダール氏の初期の研究、特に「誰が統治者か?」に対する反論もあるようだ。ダール氏が研究に協力した社会学者のウイリアム・ドムホフ(G. William Domhoff)氏による批判が紹介されている。
ドムホフ氏によるとダール氏が研究したコネティカット州ニューヘイブンが果たして米政治全体のモデルにふさわしい都市だったのか?ということがある。また、ビジネスエリートたちの力を過小評価し、一方で様々な政治グループがあることを過大評価したとする。これはダール氏がインタビューした時の対象者たちの言葉に影響されすぎて真実を見誤ったせいだとドムホフ氏は言うのだ。ドムホフ氏はカリフォルニア大学サンタクルズ校のウェブサイトに「誰がダールのニューヘイブンで本当に統治していたか?」と題する文章を掲載し、ダール氏の「誰が統治者か?」に対する批判を展開している。
http://www2.ucsc.edu/whorulesamerica/local/new_haven.html この文章の中で、現在のニューヘイブンは米国でも指折りの貧乏な町で、イェール大のリッチな学者や学生たちだけが貧者たちの間で飛び地のように暮らしている、哀しい街に過ぎないとしている。
*ハフィントンポストへの米政治学者の寄稿「もしCWライトが生きていたら「ウォール街を占拠せよ」運動に共鳴しただろう」
http://www.huffingtonpost.com/peter-dreier/c-wright-mills-would-have_b_1311345.html
■「ダール、デモクラシーを語る」(哲学者・中山元氏による書評)
http://booklog.kinokuniya.co.jp/nakayama/archives/2006/12/post_21.html 「ロバート・ダールはアメリカの政治哲学者で、デモクラシーの理論の専門家といっていいだろう。ぼくがこれまで読んだのは『ポリアーキー』の一冊で、すっかり過去の人かと思っていたが、今回イタリアで編まれたインタビューは、九・一一のテロの直後に行われたものであり、まだまだアクチュアルな理論家であることを知らされた。 ・・・」
|