最近、ナチ戦犯の裁判を扱ったドイツの話題の映画「ハンナ・アーレント」を見た。ハンナ・アーレントはユダヤ系ドイツ人として生まれたが、ナチスの台頭によって渡米し、米国で政治哲学者として活動した。その著書にはファシズムや全体主義のメカニズムを浩瀚な資料を網羅して追究した「全体主義の起源」「革命について」「人間の条件」などがある。このアーレントが自らの青春の受難ともかかわるナチスの戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴にエルサレムに出かけた経緯を描いたのがこの映画である。
この裁判の傍聴記録「エルサレムのアイヒマン」の中でアーレントが指摘した「悪の凡庸さ」(あるいは「悪の陳腐さ」)という言葉はすでに世界中に知れ渡った。アイヒマンはかつて思っていたような怪物ではなく、凡庸な人間だった、という意味である。それはアイヒマンがユダヤ人虐殺に関与したのは組織の上から命じられたからだった、と自分の行為を正当化したからだった。アイヒマンは自分は原爆を投下したパイロットと同じだと言ったらしい。原爆を投下したパイロットは軍に命じられてその行為を完遂したのであって、自らの意思で原爆を投下したわけではない。だから、原爆を投下したパイロットは原爆で市民を殺戮したことに関して有罪と言えるか、と問うたのである。
さて、この「悪の凡庸さ」なのだが、映画「ハンナ・アーレント」で出てくる歴史的人物の本物のアイヒマンは主演のアーレント(女優 バルバラ・スコヴァ)を凌駕する圧倒的な存在感を持っていた。しかも、アイヒマンの弁明のシーンは白黒ながら映像のクオリティがよいため、もしかするとマルガレーテ・フォン・トロッタ監督がそっくりさんを使って、撮影したのではないかと思ったくらいである。この映像は同朋が600万人も虐殺されたらかくもあるだろう、というくらい見事な保存状態である。このアイヒマンのシーンはドキュメンタリーの映像をそのまま使用しているのだ。
この堂々と弁明するアイヒマンの姿を見ると、それまで「悪の凡庸さ」という言葉の先入観によってアイヒマンは下っ端の小役人的な凡庸な人間だと思い込んでいたのだが、それはとんでもない誤解だったと感じられた。アイヒマンは堂々と自己の正当性を主張していた。そこには一種の余裕とか風格すら感じられた。実際、この映画を見た人はそう感じたのではないだろうか。むしろ、このような男を前にして動揺しているのはアーレントやユダヤ人たちである。主役を食う、というのはこのことである。僕には平然とこのように釈明ができる神経の持ち主は凡庸どころか、モンスターにすら思えたのだ。
僕は以前、アイヒマンを扱ったNHKのドキュメンタリーを見たことがあるが、そのアイヒマンは〜俳優による再現シーンをふんだんに使っていたのだが〜まさに「悪の凡庸さ」という言葉に忠実に描かれていた。モサドを前に命を乞い、おびえるかつての小さな役人というイメージである。しかし、「ハンナ・アーレント」で登場するホンモノのアイヒマンに、そのような印象は皆無だった。アーレントが裁判を傍聴した60年代初頭の時代、「悪の凡庸さ」という言葉は新しかった。しかし、今日では「悪の凡庸さ」という言葉には手垢が混じっている。「悪の凡庸さ」があまりに人口に膾炙してしまったがゆえに、凡庸さの裏に潜む悪意に鈍感になっていないだろうか。
だからアイヒマンは臆病ではなかった、と言いたいのではない。アイヒマンは本質的には臆病だっただろう。しかし、彼は生き残りをはかるために「組織(上官)の命令」という論理の一本で裁判を徹底的に戦おうとした。アイヒマンにはどのように弁明しようとエルサレムの収監施設に収容された自身が死刑を免れることはないと思っていたのではなかろうか。状況は四面楚歌、100%不利な中で、アイヒマンは自己のための、そしておそらくはすべてのナチスの戦犯を代弁するための弁明を堂々と行った。自分は悪の張本人ではなく、悪に巻き込まれた「被害者」なのだ、という主張である。これは見方によると「凡庸さ」とも言えるだろうが、見方を変えると「非凡さ」とも言える。一種の風格もそこから出ているのだと思う。そこまで非情に徹することができる人間はそう多くない。
その非凡さ、不敵さは世界的な普遍性を持ち、日本においても(放送業界においても)津々浦々で通用している。彼らは「悪の凡庸さ」というだけでなく、「悪の非凡さ」でもある。悪は今でもしぶとく生き抜いているからだ。しかし、その悪に本当に耐えられる人間はそう多くはないのではなかろうか。だから非凡なのである。一部の人間をのぞいて人間はそこまで石化しないし、そこに救いもあると思う。
■映画「ハンナ・アーレント」公式サイト
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/introduction.html
|