戦後日本が世界から吸収してきた文化の中で今日最も忘却甚だしいものがドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトが提唱した叙事的演劇という方法論だと思う。叙事的演劇は演劇の中にカタルシス(感動)を求めるのではなく、むしろ舞台で起きていることを一歩引いて観客が批判的に考えることができるものを目指していた。カタルシスを求める方法というのは古典以来演劇の常道となっているが、主人公に感情移入させ、主人公が涙するとともに涙するようなタイプのドラマである。
ドラマとはそもそもそうではないか、と思う人も少なくないだろうが、そういう常識をひっくり返したのがブレヒトだった。だから彼は20世紀の演劇界の最大の革命家と呼ばれている。ブレヒトが実現したのは主人公の視野狭窄による誤りを客席の人間が冷徹に俯瞰できるドラマだった。人間はもともと自分自身の出自と肉体に縛られた視野狭窄の動物である。だからこそ、演劇という表現を使って、それを乗り越えようとするドラマツルギーが叙事的演劇であり、そのための方法論が「異化」というものである。異化とは普段の価値観では当たり前の事物を違った視点から光を当てて、現実を捉え直すきっかけとすることである。
ブレヒトの叙事的演劇が極めてよく見える一例が「肝っ玉おっ母とその子供たち」という戯曲である。肝っ玉というあだ名を持つ女商人はドイツの軍隊の脇で商店を営んでおり、戦場に部隊が移動すると店も幌馬車で移動するのである。肝っ玉はその暮らしに疑問を持つことがないまま、子供たちを戦争に巻き込み、子供は全員死滅してしまう。肝っ玉には憎めない個性があるが、観客はそうした女性が家族を一人また一人と失っていく様を見つめることになる。それでも肝っ玉は自分の行動を直視することができない。
カタルシスを求める演劇の場合、この肝っ玉に感情移入し、彼女がいかに子供を愛したか、いかに戦争は悲惨か、いかに彼女は不遇の運命に翻弄されたかを描くだろう。そして観客は終演のとき、心地よい涙を流して、こう思うのである。「肝っ玉頑張れ」。
ブレヒトはこのようなドラマツルギーを否定したのだった。個々人の中には愛すべき性質もあるだろう。しかし、その人物が出来事とどう関係しているのか。悲惨な事態はなぜ起きたのか?将来この事態を反復しないために、ここから何が学び取れるのか。それを見つめるなら、肝っ玉が軍隊との商売をやめることができなかった、ということに最大の問題がある。それが子供たち全員を失う結果になった。しかし、肝っ玉はそのことに気がつかない。そして、そのことに気づくのは登場人物ではなく、ただ観客だけなのである。
戦争の反省に立ち、物事を批判的に捉えようとするこのような試みはドイツから世界に広がって、日本でもそこから学ぼうという人たちが少なくなかった。その一人がブレヒト全集を翻訳した岩淵達治氏である。しかし、その岩淵氏も昨年亡くなり、こうした方法を継承する人は少なくなっているのではなかろうか。今日、テレビの世界でも出版業界でも政治の世界でも主流は「泣けるドラマ」である。主人公に感情移入し、事件全体を俯瞰して見る視点は持ち得なくなりつつある。号泣したい人々が増えているのである。映画の宣伝文句に「泣けます」とか、「ハンカチのご用意を」と言った文言が少なくない。
岩淵達治著「ブレヒトと戦後演劇」はブレヒトの叙事的演劇が戦後日本でどう取り入れられたかを綴った日本の戦後文化史であり、またそれは同時に岩淵氏の個人史でもある。だから、今この本を読むとすれば現代日本人がいかに戦後に学んだことを忘却したかという、この30年間に日本で進行した文化の歴史を想像することができる。本書には様々な興味深いエピソードが詰め込まれているが、個人的に興味深く思ったのは1980年の出来事だ。
この年、岩淵氏は東ベルリンでチェーホフの戯曲の「三人姉妹」を見たと綴っている。この体験が素晴らしかったと綴っている。
「この年の秋は東ベルリンの演劇祭に招かれひじょうな収穫があった。BE(ベルリナーアンサンブル)よりも面白かったのはゴーリキー劇場で、トーマス・ラングホフのチェーホフ演出がすばらしかった・・・(中略)・・・トーマスの「三人姉妹」を見て、私は目からうろこの落ちる思いがし、いつかチェーホフをこのように読み代えて演出をやりたいと思うようになったが、それを「森の精」で実現させたのは20年後だった。ブレヒトはチェーホフには偏見を抱き、まともにチェーホフを読んでいなかったのではないかという気がする。・・・(中略)・・・ブレヒトは多分モスクワ芸術座のチェーホフは見せられたと思うが、センチメンタルで情緒的なものだけを感じとったのだろう。それでチェーホフに関する興味を失ったと考えるとこれは残念なことで、ラングホフの演出はまさに、ブレヒトが読まなかったチェーホフを、まさにブレヒト的に読み解いたものだった。」
ブレヒトが20世紀演劇の革命家であったとすれば、チェーホフもまた19世紀演劇の、あるいは近代演劇の革命家だった。チェーホフもまたブレヒトと同様に、近代劇のドラマツルギーに疑問を持ち、アンチクライマックスの劇作を志向した。一人の主人公に感情移入しドラマをクライマックスに持ち込む、というギリシア以来のドラマツルギーを否定し、チェーホフは何よりも群像を描き、舞台に様々な視点を併存させるという方法論をとった。それによって、観客は様々に舞台上の出来事をアンサンブルとして見ることができる。カタルシスを求める(押し付けがましい)ドラマツルギーとは異なった方法である。
岩淵氏はこの時見たトーマス・ラングホフの「三人姉妹」について次のように記している。
「基本的にいえば、この演出のポイントは、三人姉妹に同情しないという点だった。」
「三人姉妹」と言えば地方都市から「モスクワへ」という首都に憧れる終幕の三人姉妹のため息が思い出される。登場人物の間ですったもんだがあった挙句、事態はさして変わらず、心の中にはため息とやるせなさがある。それでも、希望を失ってはいけないという気丈な言葉がある。岩淵氏が指摘するように、「三人姉妹」は情緒的になりやすい。しかし、そうした演出を払拭して、三人姉妹を徹底的に突き放して、批判的に描いてみると面白かった、と岩淵氏はいうのである。
「圧巻は最後の場面で、モスクワ芸術座ふうの定番では、この町を去ることができなくなった三人姉妹が生け垣に立って、未来に向けてひそやかな言葉を語ることになっており、女優がこの台詞を言いながら涙を流すこともしばしばだった。ところがラングホフの「三人姉妹」では、連隊が町を出ていく軍楽隊の音を聞くと、三人すべてが、最後の長台詞を絶叫しながら舞台を狂気のように走り回るのである。思いは三人三様だが、この町を出ていけないことははっきりしている。イリーナは許婚者のトーゼンバフを愛していたわけではないから、彼が決闘で殺されたこと自体は悲しくないが、それより彼と結婚してこの町を出て行けなくなったことの方がショックなのである。チェーホフの作品は異化されることで、今までの常識的な読み方から解放されたのだ。」
下世話な言い方では三人姉妹の本音を描いた、ということにつきるだろう。過去の舞台の多くが情緒的であったことを思えば、その上っ面をブレヒト的に引っペがしたことで、チェーホフの面白さを深掘りできたということのようである。そして、チェーホフの演出におけるこのような試みは未だあまりなされていないのかもしれない。
■トーマス・ラングホフ(Thomas Langhoff 1938-2012) ドイツの演出家。1977年から東独のゴーリキー劇場で演出を手がけ、この成功を機に東ドイツ全土を活躍の舞台とするようになった。1980年には西独にも活躍の場を広げた。(ウィキペディアを参照)
■岩淵達治著「ブレヒトと戦後演劇〜私の60年〜」(みすず書房)
■シリーズ一枚の写真から 〜岩淵達治氏がドイツに発った日〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201011062121486
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