安倍政権の暴走が止まらない。日本国平和憲法は集団的自衛権行使を禁じているという憲法解釈が正当という立場を歴代政権は堅持してきた。ところが安倍政権はこの憲法解釈をいとも簡単に閣議でひっくり返し、日本が攻撃されていないのにいつでも海外で戦争できるように質的転換を断行した。 集団的自衛権の乱暴な容認決定というほかない。平和憲法のシンボル、九条をいとも簡単にしかも不法な手段で破棄するに等しい振る舞いと言うべきである。東京新聞社説は「憲法九条を破棄するに等しい。憲政史上に汚点を残す暴挙だ」と断じている。この暴挙を封じ込める手はあるのか。
安倍政権は2014年7月1日の臨時閣議で集団的自衛権行使を禁じてきた憲法解釈を変更し、行使を容認する新たな解釈を決めた。日本の安全保障にかかわる新事態を日本のメディアはどう論じたか。大手5紙社説(7月2日付)の見出しは以下の通り。
*朝日新聞=集団的自衛権の容認 この暴挙を超えて *毎日新聞=集団的自衛権 歯止めは国民がかける *讀賣新聞=集団的自衛権 抑止力向上へ意義深い「容認」 日米防衛指針に適切に反映せよ *日経新聞=助け合いで安全保障を固める道へ *東京新聞=集団的自衛権容認 9条破棄に等しい暴挙
以上の社説見出しからも推測できるように批判・反対論を展開しているのは朝日、毎日、東京、一方、容認論は讀賣、日経となっている。このような各紙論調の差違はここ数年来、同じ傾向が続いている。いいかえればメディアのなかでも国家権力批判派と容認派とに大別できることを意味している。国家権力に寄り添うメディアは「言論人としては失格」と私は考えるが、賛否両論混在するのは人の世の常で、その多様性から刺激を受ける効用も一概に否定することはできない。
以下では国家権力への批判的姿勢を貫こうと努めている東京新聞社説の大意を小見出しとともに紹介し、安原のコメントをつける。東京新聞社説は以下の小見出し、すなわち(1)軍事的な役割を拡大、(2)現実感が乏しい議論、(3)国会は気概を見せよ、の3つからなっている。
<東京新聞社説の大意>憲法九条を破棄するに等しい 政府が閣議決定した「集団的自衛権の行使」容認は、海外での武力の行使を禁じた憲法九条を破棄するに等しい。憲政史上に汚点を残す暴挙だ。 再登板後の安倍晋三首相は、安全保障政策の抜本的な転換を進めてきた。政府の憲法解釈を変更する今回の閣議決定は一つの到達点なのだろう。
昨年暮れには、外交・安保に関する首相官邸の司令塔機能を強化する国家安全保障会議を設置し、特定秘密保護法も成立させた。外交・安保の基本方針を示す国家安全保障戦略も初めて策定した。
◆軍事的な役割を拡大 今年に入って、原則禁じてきた武器輸出を一転拡大する新しい三原則を決定。今回の閣議決定を経て、年内には「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)も見直され、自衛隊と米軍の新しい役割分担に合意する段取りだ。 安倍内閣は安保政策見直しの背景に、中国の海洋進出や北朝鮮の核・ミサイル開発などアジア・太平洋地域の情勢変化を挙げる。
しかし、それ以上に、憲法改正を目標に掲げ、「強い日本」を目指す首相の意向が強く働いていることは否定できない。 安保政策見直しは、いずれも自衛隊の軍事的役割と活動領域の拡大につながっている。 その先にあるのは、憲法九条の下、必要最小限度の実力しか持たず、通常の「軍隊」とは違うとされてきた自衛隊の「国軍」化であり、違憲とされてきた「海外での武力の行使」の拡大だろう。 一連の動きは、いずれ実現を目指す憲法改正を先取りし、自衛隊活動に厳しい制限を課してきた九条を骨抜きにするものだ。このことが見過ごされてはならない。
◆現実感が乏しい議論 安保政策見直しが、日本の平和と安全を守り、国民の命や暮らしを守るために必要不可欠なら、国民の「理解」も進んだはずだが、そうなっていないのが現実だ。 共同通信社が六月下旬に実施した全国電話世論調査では「集団的自衛権の行使」容認への反対は55・4%と半数を超えている。無視し得ない数字である。
政府・与党内の議論が大詰めになっても国民の胸にすとんと落ちないのは、議論自体に現実感が乏しかったからではないか。 象徴的なのは、政府が集団的自衛権の行使などが必要な例として挙げた十五事例である。 首相がきのうの記者会見で重ねて例示した、紛争地から避難する邦人を輸送する米艦艇の防護は、当初から現実離れした極端な例と指摘され、米国に向かう弾道ミサイルは迎撃しようにも、撃ち落とす能力がそもそもない。
自民、公明両党だけの「密室」協議では、こうした事例の現実性は結局、問われず、「海外での武力の行使」を認める「解釈改憲」の技法だけが話し合われた。 政府の憲法解釈を変える「結論ありき」であり、与党協議も十五事例も、そのための舞台装置や小道具にすぎなかったのだ。
政府自身が憲法違反としてきた集団的自衛権の行使や、海外での武力の行使を一転して認めることは、先の大戦の反省に立った専守防衛政策の抜本的な見直しだ。 正規の改正手続きを経て、国民に判断を委ねるのならまだしも、一内閣の解釈変更で行われたことは、憲法によって権力を縛る立憲主義の否定にほかならない。
繰り返し指摘してきた通りではあるが、それを阻止できなかったことには、忸怩(じくじ)たる思いがある。 ただ、安倍内閣による安保政策見直しの動きが、外交・防衛問題をわたしたち国民自身の問題としてとらえる機会になったことは、前向きに受け止めたい。 終戦から七十年近くがたって、戦争経験世代は少数派になった。戦争の悲惨さや教訓を受け継ぐのは、容易な作業ではない。
その中で例えば、首相官邸前をはじめ全国で多くの人たちが集団的自衛権の行使容認に抗議し、若い人たちの参加も少なくない。 抗議活動に直接は参加しなくても、戦争や日本の進むべき道について深く考えることが、政権の暴走を防ぎ、わたしたち自身の命や暮らしを守ることになる。
◆国会は気概を見せよ 自衛隊が実際に海外で武力が行使できるようになるには法整備が必要だ。早ければ秋に召集予定の臨時国会に法案が提出される。 そのときこそ国権の最高機関たる国会の出番である。政府に唯々諾々と従うだけの国会なら存在意義はない。与党、野党にかかわらず、国会無視の「解釈改憲」には抵抗する気概を見せてほしい。 その議員を選ぶのは、わたしたち有権者自身である。閣議決定を機に、あらためて確認したい。
<安原の感想>有権者として心すべきこと 安倍首相という人物は、恐らく策略家としての自己に酔っているのではないか。同時に有権者である国民を相手に、国民の平和構築力と気概・反発力を試そうとしているのではないか。想像するに「首相である私の政策に不服があるなら、安倍政権を打倒したらどうか」とうそぶいているに違いない。「近いうちに打倒するから、首を洗って待っていなさい」と言い返したいところだが、反安倍勢力側に今ひとつ元気がない。
大衆レベルで言えば、反安倍の動きは広がりつつある。しかしかつての安保闘争のころの大衆動員力とその活力に比べれば、いささか戦闘力に欠ける。上述の東京新聞社説の一節、<与党、野党にかかわらず、国会無視の「解釈改憲」には抵抗する気概を見せてほしい>は当然の指摘といえるが、考えてみれば、こういう指摘を新聞社説が説かざるを得ないという状況自体が情けないというべきだろう。多くの国会議員の不甲斐なさは今に始まったことではないが、それにしても骨無し議員が多いのはどうしたことか。
そういう国会状況の中で光っているのは日本共産党議員団である。いまや反安倍路線で一貫しているのは共産党のみとなっている。気がかりなのは、そういう共産党に対するメディアの姿勢が逃げ腰になってきていることである。こういう姿勢は「天に向かって唾(つば)を吐く」迷妄といえるのではないか。十分に心したい。
*「安原和雄の仏教経済塾」からの転載
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