来る9月22日(月)、午後2時から東京地裁103号法廷で、「安倍靖国参拝違憲訴訟」の第一回口頭弁論が行われます。安倍晋三首相が昨年12月、靖国神社を参拝したことで精神的苦痛を受けた市民273人が原告となって、安倍首相・国・靖国神社に対して今年4月21日に起こした訴訟です。私も原告の一人として加わっています。9月22日の第一回口頭弁論を傍聴可能な方、午後1時半頃までに東京地裁(地下鉄霞ヶ関駅)前に行ってください。
http://homepage3.nifty.com/seikyobunri/about.html
訴訟は、安倍首相の靖国参拝によって原告が被った権利侵害(平和的生存権、宗教的人格権)と精神的苦痛に対して、損害賠償を求めています(損害賠償請求)。
併せて、安倍首相の靖国参拝の違憲性(政教分離違反、信教の自由の侵害、宗教的人格権・平和的生存権の侵害など)を訴え、審理を求めています(違憲確認請求)。そして、違憲である靖国神社参拝の差止めを求めています(参拝差止請求)。
9月22日の第一回口頭弁論を傍聴可能な方、午後1時半頃までに東京地裁(地下鉄霞ヶ関駅)前に行ってください。状況によっては傍聴抽選となりますが、多くのみなさんに裁判支援していただければと願っています。(と言いながら、私自身は名古屋での大学講義と重なり、どうしても参加できないのですが・・・)
以下貼付したものは、原告としての私の意見陳述書です。遅ればせならが、昨日(8/28)、書きました。NGOの関係でフィリピンと韓国の私の友人との出会い体験から、私の「平和的生存権」の侵害と精神的苦痛に焦点を絞って具体的に書きまとめました。よかったらご一読ください。
------------------------------------------------ 原告意見陳述書
2014年8月28日 原告 池住義憲
私は、東京基督教青年会(東京YMCA、1967〜1980年)、アジア保健研修所(AHI、1980〜1997年)、国際民衆保健協議会(IPHC、1997〜2003年)三つのNGOで計36年間、アジアの平和と地域開発のための活動/運動に従事してきました。
それらの活動経験と宗教者(キリスト者)としての生き方から培った私の平和を希求する生き方は、昨年12月26日の安倍晋三首相靖国神社参拝によってどのように権利が侵害され、精神的苦痛を受けているか、について原告として意見を陳述します。
1.フィリピンでの体験
私は、1982年から2年間、NGOの仕事の関係で家族と共にフィリピンに住んでいました。その間、私はフィリピン人から異なる場所で、計3回、同じ質問を受けました。
その質問とは、「1942年から45年の間、あなたのお父さんは何処にいましたか?」です。最初にこの質問をしたフィリピン人は、ケソン市に住む義眼と義手の70歳位の老人でした。その声は、今も忘れることはできません。
日本軍は、1941年12月8日、開戦と同時にフィリピンへの侵略を開始し、1942年5月のコレヒドール島陥落を機にフィリピン全土を日本軍の支配下に置きました。以後、1945年8月までの3年半、日本軍は圧制に加えて、婦女子の凌辱、物資の掠奪、残忍なゲリラ狩り、ビンタの濫用などで住民の怒りと怨恨を買う蛮行を重ねました。日本軍の戦争犯罪によるフィリピン市民の犠牲者は、9万人を超えました。
他者の足を踏みつけた者はその行為を軽視して忘れますが、踏まれた者は決してその傷と痛みを忘れることはない。戦争の傷跡は、世代を超えて続いていることを身体で感じ取りました。
私は、この時、「和解とはアジア諸国民に対する戦争加害責任を正しく認識することから始まること」、「二度と日本を戦争する国にはしない/させないこと」、「いかなる状況であっても、武力・軍事力による力の支配の加担者にはならないこと」を心に誓いました。
そしてこれは日本人としての私の責任であり義務である、と心に刻みました。私の平和的確信が明確に意識化された時です。
その後も、インドネシア、マレーシア等での類似体験によってアジア諸国民に対する戦争加害責任をより強く自覚し、私の平和的確信は確固たるものになっていきました。
2.韓国での体験
韓国では、同じくNGOの仕事で1987年から順天(スンチョン)市郊外で毎年約2週間にわたり、韓国全羅南道の農山村・離島で農村伝道に励む青年牧師を主対象とした「農村地域保健」指導者研修を行っていました。
1989年9月、私が研修を終えて全州(チョンジュ)を訪ねた時のことです。夕方7時頃、市郊外にある基督教農村開発院に着き、責任者である鄭萬浩(チョン・マン・ホー)さんに会いました。
一般的会話の後、私は韓国で行っている研修活動について話し始めました。するとその途中、鄭さんは厳しい目線、低い小さな声で私に「なぜあなたは韓国を助けるのですか?」と質問を投げかけたのでした。
この質問の背後には、日本人の韓国・朝鮮人に対する一方的な侵略と抑圧という過去の日韓の歴史があります。鄭さんのお父さんは三・一独立運動(1919年、日本帝国主義統治時代に起こった朝鮮民族による独立運動)の闘士であり、叔父さんは反日義兵闘争(1896〜1910年、韓国を日本の保護国化する動きに対して全国的に広がった抗日闘争)の一員でした。
いずれも日本軍兵士に殺されたのです。鄭さんの心のなかには、日本の植民地支配という長い歴史の中で培われた、言葉で言い表すことの出来ない深い怒り、憤り、悲しみが依然として根底にあるのです。
私は鄭さんの質問を受けて、紙を使って次のように筆談しました。 「通常の国際援助・協力活動は、豊かな者(国)から貧しい者(国)へという上下関係で考えられている。しかし、私は違う。過去の日韓の歴史のなかで、『侵略した国』と『侵略された国』という関係を前提にしている。いくら償っても償いきれない過去の日本の過ちを詫び、決して再び起こることがない努力と関係づくりをしていきたいと思っている。私が今NGOでやっていることは、以前に私たち日本が奪ったもののほんの一部分を返している、戻しているに過ぎない。いくら返しても、返し終わることはない。なぜなら、多くの人の生命までも奪い取ってしまったのだから…」。
鄭さんとの筆談は、夜遅くまで続きました。一通り話し終えると、鄭さんは微笑みながら私にグラスを差し出してくれました。私はその酒を飲み干し、返杯。鄭さんも飲み干す。そして私に右手を差し伸べて、固い握手…。その瞬間、私の目の前を「和解」の二文字が横切り、思わず涙がこみ上げてきました。
3.私の権利侵害と精神的苦痛
こうした私の平和的確信に基づく生き方は、それから31年経った昨年末、安倍首相の靖国神社参拝によって踏みにじられ、全面否定されました。アジア・太平洋戦争を「自存自衛の正義のたたかい」(聖戦)として美化し、A級戦犯も「昭和殉教者」と称して英霊として祭っている靖国神社への参拝は、「戦争加害責任の正しい認識のもとでアジア・太平洋の人たちと共に生きる」という私の生き方そのもの、私の平和的生存権が否定・侵害されています。
私は、他者の苦痛を自分の苦痛と感じない人間ではありません。安倍首相の靖国神社参拝を知ったアジア・太平洋の人たちがどのように思っているか、感じているか。その深い悲しみと怒りは、計り知れない。安倍首相靖国神社参拝によって多くのアジア・太平洋の人たちの心が傷つけられている。32年前、フィリピン・ケソン市で会った義眼・義手の老人のことを思うと、私は、どうしようもなくつらい。
私にとってNGOの国際協力活動は、「和解の業」への参画です。私の平和的確信をベースにした具体的実践の一つです。私の生き方の重要な柱です。「和解」は、まず何よりも侵略した国への正式な心からの謝罪と補償・賠償を全うすることから始まります。そうした姿勢と行為こそが、二度と侵略戦争を起こさないという約束の履行なのです。被告安倍の靖国神社参拝は、これらをすべて否定する違憲行為です。
ゆえに私は裁判所に対して、侵害されている私の「戦争加害責任の正しい認識のもとでアジア・太平洋の人たちと共に生きる権利」という私の平和的生存権の回復と、私が今も受けている精神的苦痛の救済を求めます。
司法府は、他者の不法行為によって生じた市民の権利侵害ならびに精神的苦痛を救済する最後の砦です。どのような権力・圧力からも影響されることなく、独立して公正な判断を下し、権利侵害、精神的苦痛に苛まれている市民を救済する場所です。拘束されるのは、唯一、憲法と法律です。
違憲立法審査権を行使し、「法」と「良心」に基づいて公正な判決を下し、私が受けている権利侵害と精神的苦痛を救済してください。私は、司法府の良心、裁判官の良心、を信じています。
以上
|