安倍政権が女性の活用をアピールするため、安倍首相は内閣改造を機に女性を5人大臣に据えた。新聞では女性の管理職や女性の政治家の割合が日本では圧倒的に低いという記事が続いている。これから女性の昇進を加速するつもりのようだ。
女性が上司になったら男にとってそれは何を意味するのか?
一概には言えないだろう。男性の管理職一つとっても人によって個人差が大きく、慕われる人もいれば嫌われる人もいる。それはともかく、男性が女性の上司に期待するものがあるとすれば何だろう。
アメリカでカリスママダムとして人生の指南役となっているフランス人のマダム、ミレイユ・ジュリアーノ氏は「フランス女性の働き方」という本の中で次のようなことを書いている。ジュリアーノ氏はフランスの伝統的なシャンパン製造販売会社のアメリカ支社長の女性でもある。
「「フランス女性の12か月」で、フランス人は誰かを紹介するときに、職業で紹介しないと書いた。かたやアメリカ人はたいてい仕事で紹介する。「ジルをご紹介するわ。彼女はボーイング社の会計士なの」わたしならこういいたい。「ジルをご紹介するわ。彼女はメキシコ旅行から戻ってきたばかりなのよ」」
これは非常に典型的な違いの例である。アメリカ文化とフランス文化の違いとして挙げられているのだが、同時に男性文化と女性文化の違いでもあるように思われる。
女性は男性に比べると職場や職業を変わる機会が多い。結婚とか出産、あるいは老親の介護といったことも女性の人生に影響を与えがちである。だから、多くの場合女性のアイデンティティは職場とか職業よりも、自分の家庭や生活全体など生きていくこと全般にあると思われる。一方、男性の場合、90年代以後転職が増えているとは言っても未だ多くの男性にとって会社は一生の選択肢であり、終身雇用が前提となっている。そのため、仕事がうまく行っている時男は全能感に浸ることができる。しかし、仕事が不調になったり、会社が斜陽になったり解雇されたりすると、その分折れやすく、自殺するケースもしばしばある。
90年代になって、不況となり、将来、年収は300万円の時代が来る、あるいは200万円の時代が来る、あるいは・・・とどんどん年収が下がっていく世の中になって、経済評論家の中には「心配はいらない。ラテン人になればいい。ラテン人なら年収が少なくても楽天的に生きていける」と言う人も出てきた。しかし、そうした人々の暮らしはむしろ、勤務時間が長時間に渡ったり、交代要員がいなくて一人で長時間勤務を余儀なくされたりと、ラテンどころじゃないケースも増えている。日曜日だけラテンになる、というわけにはいくまい。日本のサービスのクオリティは世界でも指折りの高さである。それは誇れるものでもあると同時に、強いストレスの源にもなっている。賃金は伸びないが、職場の労働管理はどんどん強化されているのだ。日本の会社は変化している。しかし、男性のアイデンティティはあまり変わっていないようだ。
女性の上司に期待することがあるとすれば、職場に人間性を取り戻すことだろう。人間は会社の為だけに生きているわけではない。恐らくこれから増えるであろう女性上司の中には男性カルチャーに同化して、仕事=人生と考える人もいるだろうし、逆に仕事は人生の中の1つの要素と限定して考える人もいるだろう。しかし、会社の仕事と、個人の暮らし、さらには社交(政治活動や奉仕活動などもここに含まれる)、そのバランスをうまくとることができる会社になることを望む男性は少なくないと思うのだ。いや、女性に期待することはそこにあると言って過言ではない。その延長には会社の事業自体が人間的なものかどうか、それを人間の生活全体から判断できる人が求められているのである。
女性の政治哲学者ハンナ・アレントは古代ギリシアにおいては「仕事」は市民の大切な営みではなかった、大切だったのは公共の場における討論や政治であったと書いている(「人間の条件」)。当時「仕事」をしていたのは奴隷だったという点で、古代ギリシアが人類の模範となるわけではない。しかし、仕事をめぐる価値観は時代によって大きく異なっていたことは事実である。それだけでも現代の暮らしを考え直す契機になるだろう。アレントはマルクス主義の誤りは仕事を第一義に据えて、生産(労働)至上主義になったことだと続けているのである。資本主義であれマルクス主義であれ生産至上主義、労働至上主義が現代の歪んだ暮らしを生んでいると指摘しているのである。
■ハンナ・アレント著「人間の条件」(The Human Condition)
http://press.uchicago.edu/ucp/books/book/chicago/H/bo3643020.html
■外食チェーン店とアルバイト
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201408170228320
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