今年もノーベル文学賞は村上春樹氏に授与されず、フランスの作家、パトリック・モディアノ氏に決まった。モディアノは著名だが、実際に自分が何か読んだことがあったのか、となると記憶が定かではない。見たことがある映画の原作者として知っているだけだったのかもしれない。
ノーベル賞のサイトによると、授与された理由は "for the art of memory with which he has evoked the most ungraspable human destinies and uncovered the life-world of the occupation"である。要約すると、記憶の技法あるいは記憶の芸術あるいは単に記憶術となるかもしれないが、フランスがナチスに占領された時代に起きた市民の埋もれた知られざる運命の悲劇を掘り起こした業績、となるだろう。
丁度、偶然だが、その頃僕は作家の小川洋子氏が書いた「物語の役割」(ちくまブリマー新書)を読んでいたのだが、そこにまさにそのようなモディアノについての記述があったのだ。小川氏はモディアノが書いたノンフィクション作品、「1941年、パリの尋ね人」について書いている。
小川氏によると、モディアノは1941年、12月31日付の新聞に掲載されていた1つの尋ね人の記事に注目したという。それは15歳の少女の行方を捜している記事だった。モディアノはその少女の行方が気になって、10年がかりでコツコツ調査したのだという。その少女は貧しいユダヤ人移民労働者の娘で、行方不明になった時、移送列車に載せられ、結末はアウシュビッツのガス室で亡くなったと推測されるという。
「本書の前書きでモディアノは、寄せられた批評の中で最も心を打たれた一文として、次のような言葉を挙げています。 「もはや名前もわからなくなった人々を死者の世界に探しに行くこと、文学とはこれにつきるのかもしれない」 書くことに行き詰まった時、しばしば私はこの文章を読み返します。」(小川氏)
ノーベル賞の対象がこの作品に限るのか、すべての作品に言えるのかわからないが、小川氏の説明を読むとノーベル賞の授与されたのがどのような理由だったのかは理解できる。
これは文学の話だが、人間の記憶に話を敷衍すれば一般にファシズムとの戦いは忘却との戦い、歴史をゆがめる権力者との戦いだとはよく言われることであり、世界の共通認識となっている。文学ではなく、歴史の世界でも記録を残さずに消えていった人々を発掘する営みは行われてきた。たとえばアラン・コルバン著『記録を残さなかった男の歴史〜ある木靴職人の世界〜』である。以下は、日刊ベリタに以前寄稿した時の文章から。
<今身の回りにはビデオカメラやパソコンなど、個人の記録を残すツールが無数にあり、記録を加速度的に増やしています。こうした文明はどこに向っているのでしょうか? フランスの歴史家アラン・コルバンの「記録を残さなかった男の歴史」はそれに対する興味深いアンチテーゼのように見えます。コルバンは19世紀、フランス農村に生きた木靴職人ルイ=フランソワ・ピナゴの生活を推理します。ピナゴを主人公に据えた理由はピナゴが文盲で戸籍簿の出生と死亡欄以外に一切の記録を残していないためです。 コルバンは記録を残さなかった人間を注意深く選び、その人間の足取りを周囲の地理、歴史、人口動態、経済などの記録に基づき徹底したリサーチと想像力で描いたのです。「記録を残さず消えてしまった人々について我々は一体何を知ることができるのか?」 コルバンはそんな新しい歴史学を提唱しました。>
インターネットが大流行する現代だが、かつては読み書きのできない人も少なくなかった。私の祖母もそうだった。そうした人々は何も文章として残すこともなく、歴史の中に消えてしまう。またそもそも文字を持たない文明もあった。日本人がものを読み書きするようになったのも中国から漢字が入ってきてからである。それまで文字はなかったのだ。人間の歴史をたどれば文字を持たなかった歴史が圧倒的に長い。
■パトリック・モディアノ氏の本(ガリマール社刊行のもの)
http://www.gallimard.fr/Contributeurs/Patrick-Modiano
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