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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2014年11月03日11時04分掲載
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文化
【核を詠う】(特別篇) 歌集『廣島』を読む(8) 「八とせ経て原爆病があらはれてあはれや死にき新妻たか子」 山崎芳彦
いま読んでいる歌集『廣島』が刊行された1954年に、角川書店の短歌総合月刊誌「短歌」10月号には、歌人5氏(岡野直七郎、山田あき、須賀是美、佐々木妙二、福戸国人)による座談会「原爆歌集『廣島』の意義」が掲載された。筆者は当該誌を読んでいないのだが、「短歌」2013年1月号の付録(「『短歌』創刊1954年ベストセレクション」)に上記座談会が復刻再録されているのを読むことができた。歌集『廣島』が出版されたのが1954年8月だから、その直後に企画されたのであろうと思うと歌集『廣島』の出版が当時の短歌界に大きな衝撃を与え、注目される出来事だったことがうかがえる。
原爆被害についての研究発表、報道、文芸作品の出版などを含む言論出版の自由を厳しく規制する米占領軍のプレス・コードや占領行政の下、原爆投下によって数か月間で十万人が急性症によって命を奪われ、生き延びても原爆症や全市破壊・焼失、家族、親族の喪失などによって生活基盤を根底から奪われた被爆・被災者の実態は、暗黒の中に押し込められ、国の都市復興政策促進のなかにあっても原爆被爆者は医療もうけられず、心身ともに傷ついたまま為政者からも取り残されていたのであった。その中で、原爆被災の実態を、多くの被爆者が短歌表現した歌集『廣島』発行の意義は大きかったに違いない。
角川「短歌」1954年10月号の「原爆歌集『廣島』の意義」座談会では、多くのことが語り合われているが、その一部を見ておきたい。 「第一に記録文学として・・・原子爆弾による人間実験として、最初にして恐らく最期の、悲しむべき世界史的文化遺産になるだろうということです。・・・この『廣島』を読んで、その生々しい惨禍に、目をおおって感動した。この感動こそ、記録文学として立派に生き得ていることであり、かつ又短歌型式が、立派に現代文学として生き得た証拠ともなる、と思う。強調すれば、第二芸術論を、この一冊が否定し去ったとも云えるでしょう。」(須賀氏の発言。この引用では旧仮名遣い、旧字をそれぞれ現代文に変えているが、筆者の責任である。以下同じ) 「また医学的文献としても、意義がありますね。原爆症というものの、この病名は少し前まで『原爆症』或は『原爆病』と呼ばれていましたが、最近では上に急性とか慢性とかいう字をつけて「放射能症」といっております。この本を読むと、その体験から各種の症状、或は後遺症乃至これに付随する後発性ノイローゼなど、すべて描かれている。・・・結局、一人でないために、多数の体験の集積として、こういう文献が出来上がっていると云うことも、また短歌ジャンルの文学上に占める強みではないでしょうか。」(同前)
「この記録は、日本の国民全体に、あるいは国際的に、それ(「自分たちの犠牲を、平和の基礎にしたいという作品」、この部分は他の発言からの筆者の類推である)を打ち出している。ここに大きな意味があると思う。狭い歌壇なんかから、ハミ出しちまっている。この意義は大きいと思う。・・・ちっぽけな世界を相手にしないで、もっと大きな世界を相手にして作品を打ち出したというところに大きな意義があると思うんです。」(佐々木氏の発言、同前)
「この歌集について後記のところで編集委員が書いておられる言葉・・・原爆使用に対し如何に人間として抵抗を挑んでいるか、・・・“つくられた歌“に対して”作らずには居られなかった歌”つまり、おのづから唱い叫ばずにはおれなかった歌としての姿勢をとっている点と、結社によらない一般民衆によって、この歌集が支えられている等の事実は、現歌壇に対して一つの方向を示唆している・・・やはりこれが歌集『廣島』について考える上のキー・ポイントだと思います。私自身、・・・いわゆる第二芸術論などに相当なショックを受けた一人ですが、大げさにいうと、この歌集を読んで短歌の強みというものを教えられたような気さえするんです。・・・単に文章から一部分を区切り取ったとは違うところの訴えるものがあることがハッキリ判ります。」(福戸氏の発言)
「2、3年前に広島へ参りました時・・・広島の街は目ざましく復興していて・・・にぎやかなことでした。でもそれはうわべだけのことで、ほんとうに歩いて見ますとほとんど花さえ咲いていないありさまなんですね。・・・それで死んだ人たちの霊はどうなっておりますかと言ったら、まだなんにもできていないというんです。地元の歌人たちも、それぞれに悲惨な目にあわれたのですが、その体験を歌いあげたり、集団の形にまとめる・・・何とかして地元の歌ごえを一本にしなければいけないと思いました。玄人、素人を問わずに、この土の下にどんなうめき声があったか知れないと思いますので、ぜひ玄人の人の歌というのでなくって、こんなひどい目にあった日本人としての怒りの声を・・・日本人全部に、また世界のあらゆる人々に訴える弾として放っていただきたい、と言ったんです。そのときのことを思うと、この歌集はまことによく出されたとふかい感じを受けました。・・・この歌集には、日本人の生活内容や生き方の問題や感性のあらわし方が、たっぷりと含まれていて、短歌の芸術としての第一義が強く押し出されていると思うのですよ。」(山田氏の発言)
「この歌集は、結局たくさんの人が書いているということに意味があるんであって・・・一人だけの体験の及ばないところがあると思うんです。それがこれは数ですから、総計としては力を持つということ・・・これには最大公約数的なことが現われているから、ところどころ拾い読みしてもどれだけ悲惨であったかということが、よく現われ・・・歌集の力としては、ある程度の力を持つと思いますが、作者ということになると、万葉に比べると問題ですね。結局記録になりますね。」(岡野氏の発言)
「私はやっぱり大田洋子その他の人たちが全然表現しなかったものをやはり短歌として―記録としてじゃなしに、―全身をふりしぼって、身なりかまわず、どならずにはおれないような―人間のほんとうの叫び声として歌っていると思うんです。それは日本の短詩形文学の、深い伝統の根があってできたんで、これこそ、短歌の真髄だとおもうんです。」(福戸氏の発言)
(座談会ではもっと多岐にわたって、具体的な作品を上げながら多くのことが話し合われているが、引用はこれまでにする。先に記したように仮名遣いや文字について、筆者が現代風に変えるということをしてしまっていて、原文通りでなくなっていること、引用も要約的につないでいることをお断りし、不適切になっている部分があればお詫びするしかない。座談会出席者各氏について筆者は知識を持っていない。)
ところで、歌集『廣島』が刊行された年について、原爆にかかわる年表を繰ってみると、1954年3月には米国がマーシャル群島ビキニ環礁で水爆実験を行いミクロネシア住民が致死量に近い放射線被爆し、その近海で漁業操業をしていた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が“死の灰”を浴び久保山愛吉氏(同年9月に放射能症で死亡)ら全乗組員23名が被爆(のちに周辺海域で操業していた多くの漁船の被爆も判明した)するという事件が起き、4月の国会衆参両院で「原子兵器使用禁止決議」の可決、また、「世界平和者日本会議広島大会」が原子兵器の使用禁止、原子兵器の廃棄、製造実験その他軍事目的のための企図の禁止、原子力の国際管理と平和利用の促進などをうたった「広島宣言」を発表、5月には水爆禁止署名運動杉並協議会の結成、原水爆禁止広島市民大会の開催、8月には原爆投下9周年平和記念式典開催・浜井広島市長平和宣言、原水爆禁止広島平和大会、平和運動全国協議会開催、歌集『廣島』出版記念会・・・など様々な動向が記されている。原水爆禁止署名運動が広がるとともに、原水爆禁止署名運動、多くの集会・大会の開催、広島原爆障害対策協議会による原爆症に対する医学的な調査・研究・国に対する治療費国庫負担要求などもすすめられた。ビキニ事件があり、原爆の広島、長崎への投下による被害の深刻さ、被爆者の苦しみの実態などが、米軍占領時代が過ぎたこともあり、それまでと比べれば原爆報道、文化面での表現の活発化、原水爆禁止運動の組織的進展によって、明らかにされ始めてきた時期であったといえるだろう。歌集『廣島』もその一環であった。だが原爆被爆者の苦難、国などによる対策は極めて不十分であり、原爆被害者への国家補償はなされていない。
また、この時期の原水爆禁止大会などの宣言に「原子力の国際管理と平和的利用推進」が盛り込まれ、1953年12月のアイゼンハウアー米国大統領による国連総会での「原子力の平和利用」計画についての演説―原子力発電普及のために原子力に関する情報を米国企業、友好国と共有するための管理推進路線、今日の原発推進につながる方向を認める問題点があったことを、改めて見ておく必要もあると思う。 1954年10月に日本政府は原子力の導入のために愛知揆一通産大臣(当時)らを渡米させ原子力導入のための交渉を開始している。そこで原子力発電の導入のための日米協力体制が準備され、その裏で第五福竜丸問題の見舞金による政治決着が図られた。原子力発電の導入への動きが活発化していった。原爆被害の深刻さ、原子力兵器の恐ろしさを逆手にとって、「原子力平和利用」に人々を取り込む攻勢がさまざまな手法で進められ、一方原子力兵器保有大国による世界支配体制の構築も進み、核拡散の脅威も増した。
作品を読む前に、まとまりのないことを長く記してしまった。前回に続いて作品を記していきたい。
◇高橋 晋 会社員◇ 目と口とだけ穴ありて白き薬におほはれた患者の姿いたまし
◇高橋武夫 弁護士◇ 我が家の焼跡に立ち子の骨を捜すうつつぞ堪へられなくに 爆弾の焔を浴びて火達磨と化して死せしかあはれわが子ら 竝みよろふ山青けれど麓には瓦礫の廃墟海につづくも 逝くものは逝く運命(さだめ)とぞてみじかに語らふ人に怒りおぼゆる 焼跡の瓦礫つらなる街の中澄み極まりて川流れをり 累累と瓦礫の廃墟ひろしまの七つの川に月は冴えたり ビルの窓みな壊たれて落日の光りを孕む焼跡にたつ 亡き吾子と疎開荷物を運びにし道にまた出ぬ秋風さびし ゆふさりて白壁のへに物の影消えゆく頃は亡き子偲ばゆ 誰彼の死したる噂子とせしがその子もいまや死にてしまへり 兵隊靴に自転車踏みて我がいゆくこの焼跡の冬の黄昏れ 苦しみて喘ぐ父我のよすぎをば今日も終わりぬ亡き子許せよ 吾子逝いてひととせ経ちぬ我家の焼跡はただ草ぞ蒸すなる 松籟を朝な夕なの友として静かに眠れこの山の辺に 我敵はこの国の指導者と喝破して死せる人あり戯言(たはごと)ならず 天地(あめつち)の死塊となりて生物のみな滅びなば慰むものを
◇竹内多一 無職◇ 原爆で焼けしベットの残骸が並ぶよ病舎の位置にそのまま 火ぶくれし顔を近づけおろおろとわが前に佇つ誰かわからず 誰かれと焼けころがれる白骨を名ざし定める焼けビルのなか 鳥取より救援に来し看護婦ら焼けビルにむしろを敷きてごろ寝す 水槽へ頭をつけし姿勢のまま死にをり尻をむき出しにして 死体さがしにつかれまどろむ草の上夜露つめたくしばしば目覚む 見あぐれば星座きらめき死かばねの街の空ゆくあやしき爆音 死体整理はかどらぬまま日は暮れぬ火葬のたき火そこここに燃ゆ 蚊帳のなかにのたうちうめく声がして腐臭を放ち生きてゐるなり 夜もすがらうめきてゐしが息絶えて明け方近くしづかになりぬ 手鏡に崩れみにくき顔形を見つめて死にき乙女敬子は 板の上にいろはの順に名を連ねセロファン包みの遺骨ならべり あの朝より行方知れざる久保三郎のほがらの笑ひ胸に残れり この土に色うつくしく花咲きぬ死屍累累と在りし日のあり 原爆に崩れ残りし鉄骨のむかうにのぼる月のあかるさ 復興のすみやかなるは映画館料理屋キャバレー銀行のむれ 子供らは野天にすわり教科書も学習帳も持たず学べり 原爆特集発行禁止の命きびし占領治下の民のあはれさ キャバレーで軍艦マーチ流行す軍需景気を踊りゐるむれ 戦争の下請けせねばこの国はたたざるごとき日日の論調 原因不明のわが症状を原爆の故と意識す六年を経て 八とせ経て原爆病があらはれてあはやれや死にき新妻たか子 崩れたる家の下より這ひ出でてつづく苦難の八とせの命 原爆乙女の顔面整形を援助すとスターらサインす花やかに悲し にくしみのまなこをはじきごう然たり比治山山上のA・B・C・C A・B・C・Cは兵器実験のひとつの場山上の偉容に怒りあたらし A・B・C・Cへ比治山山上を提供し市長は行けりアメリカへの旅
◇竹下和孝 無職◇ 燃え近き梁の下より逃げ行けと叱るが如く母は叫びつ 母の名を呼び続けゐし声絶えて学徒ら次次と死にてゆきたり 「安らかに眠ってください」と言つたとて眠れるものか嗚呼八月六日 家を引く綱をもちたる姿勢にて黒焦げとなりし兵の隊列 横倒しになりたる馬の腹破れ悪臭放てり人屍に混りて 数あまた浮かべる屍体のその中に新しき衿章の少尉まじれり アメリカの良心と呼ぶ彼女さへひろしまに詫びる心示さず 母ちやんと絶叫しつつ少年がはだしで炎の中を走れり 息絶えし母とも知らず幼子は黒焦げ死体にまつはりてをり 眠りゐしか坐したるままの姿勢せる電車の中の黒焦げ死体 倒れしまま尚燃え続く電柱に北への道もふさがれてをり 燃ゆる電柱地をはふ線に幾度か足とられつつ妻を背負ひゆく
◇竹下万寿夫 左官業◇ もくもくと爆煙上るその空を小落下傘風に吹かれゆく ケロイドの顔半分に残りゐて人目避け暮す若き人妻
◇武田 衞 工員◇ 爆風の煽りうけしあと気分悪く防空壕を出てたびたび下痢す 死期近き学徒の唇に水を塗る手を握りやれど握り返さぬ 手の爪の変形一つ目印に探して歩く焼け死体の中を 生きながら蛆わかせをる女らの水を欲しがる意識なき顔 声に出ぬ苦しむ顔も焼傷に眼が潰えをり蠅群れながら 腐爛せし上にかぶさる蠅黒くむごたらし姿に怒りこみあぐ 腐りたる死人の匂ひ付く足の泥洗ひをり雨降るたまりに
◇谷口藏素 家具職◇ 茜雲血の色なして幾万の生命沈めし川の面に映ゆ 余燼なほくすぶり止まぬ黄昏の焼土にたちて経誦む僧あり 焼石に憩へばあはれ足もとの瓦礫にうつ伏す半焼けの死体 水管の亀裂ゆつよく噴きあぐるしぶきに淡く虹のかかれる 鶴嘴もて死体掻き寄す兵のあり哮(たけ)る相は鬼にかも似る 焼けただれ狂ひ死にしが村山に運ばれてゆく今日も幾たり くづ折れし心に踏める凍て土に殻を被りて萌ゆる芽のあり
◇煙石敏子 無職◇ 逃れ来て山辺の水に血洗ふもガラスの傷が痛くもあらず 玻璃(はり)越しにフラッシュの如き閃光を生(なま)あたたかく全身に受く 無気味なる轟音立ちて燃えつづき炎は仁保の山肌を照らす 走り逃ぐ人らかき分けはらからの安否気づかひ名を呼びて行く 逃れ来し安堵に深く息つきて真黄の液を苦しげに吐く 逃れ来て山にこもりて五日過ぐ焼けし我が家を遠く見呆ける 山ごもり五日も在れば漸くに人気も無くて蝉の声高し 終日を火葬の煙立ちこめて臭気は鼻に強く入り来る
◇千伏妻平◇ 虚空を掴み焼け転がれる路上にて電柱の尖端ぼろぼろと燃ゆ ひとり来て灰掻き居しが大股に歩み去りけり復員兵か 広島の歯ぬけの街に生ふる草「地所売ります」の札も古りつつ
◇津田定雄 教員◇ 面影のかなしきドームのなほ立ちて暮れ入る空を鳥群れめぐる
◇寺西昭子 農業◇ 動員の兄に逝かると涙して語りし友も病みて今はなく
◇土居貞子 主婦◇ 先ず子らを迎へに行かむと馳せ出れば通りを児童(こら)が泣きてもどり来 子らよ子らよよく無事なりししつかりと二人の子らの手をにぎりしむ ほのぐらき収容所の廊下生きながら死骸とともに寝てうめけるも 死体の間にまだ幼かる男の子眼ひらきて水を乞ひをり 手のひらにすくひ呑ませばうなづけるこの子の母よ探しいまさむ 若き日の半ばを務め還り来ぬ弟あはれ祖国やぶれて 収容者名簿五度くれり今日もまだ友の名見えずいづこを探さむ 消化ポンプ丹の色鮮やけきままにして瓦礫の中にころがりゐるも ビキニの水爆実験よケロイドの底うずきくると友の怒れり
◇斗山藤子 主婦◇ 横たはる死がいはくさりてはみ出した腸は長長と道にたれをり 姿なき死は信ぜざる今もなほ帰り来ぬかや足音を待つ
◇斗枡良江 元教員◇ 先生! 殺してと叫びとびつける教へ子はむざん全身の火傷 水つ水と講堂のやみに叫ぶ声足さぐりゆき水をあたへぬ 葡萄園の主の怒る声しきりなれど出でんともせず避難者の群 水をくれとわれにたのみし人はけさ息絶えてあり眼ひらきて 我が母と思ひて乳を吸ひつくしねむりぬ頬に穴のあきし子 長雨にいたく雨もる炊事場に傘をかざして子らの飯炊く 先生によろしくといひて逝きし子の面影はまだ目にあらはなり
◇研谷サダ子 主婦◇ 街路樹の芽吹ける見れば地獄絵図さながらなりし街と思へず 形あるもの悉く焼かれしが根強く芽吹くもの裡にあり 鄙に一人侘び住む媼原爆にことごと身内なくせしを言ふ 美しき乙女と見しに片頬のケロイドに気付きまみ伏せぬ我 ケロイドをさらす乙女の痛ましさ巷に春は又回り来し 夜仰ぐ原爆ドームの黒影(シルエット)声無く霊のひそめるが如 廃墟の儘暮れしドームの遠近に色とりどりのネオンまたたく 引揚げて未明を駅に着きしかど灯の数も無き広島なりき リュック負ひし引揚げの身がそれぞれにうから求めてさまよひ行きぬ 引揚げて明日の当なき我と子が焼け残りたる宇品歩きぬ 広島の悲話に血の引く思ひして引揚げの身の惨めさに堪ふ 親の無き園児等寄りて遊び居り春の陽の下に只嬉嬉として 嬉嬉として遊べる子等よ時として親無き事も忘れ居るべし 愛の手の伸ぶとはきけど誰が生みの母に優れる手をば持つべき 悶えつつ息絶えしうからの回忌来て仰げば今日も陽は空に燃ゆ 最後には輸血も拒み逝きしてふ原爆遺症の子のいぢらしさ
◇徳田多美子 主婦◇ 埋めるべく投げ出されたる幼児の焼けただれにし骸(むくろ)の悲し
(つづく)
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