本紙でパリ政治学院のファブリス・イペルボワン教授が<フランスではアラブの春が起きた時、ほとんどのメディアが黙殺していた>という意味合いのことを話している記事があるがそれはどういう意味だろうか。「最後の最後になるまで、ほとんどの大手メディアが話題にしなかった」とあるのはどのようなことなのか。
「アラブの春」が始まったのはチュニジアであり、それは2010年12月17日に若者が焼身自殺をしたことが引き金になったものだった。実を言えば当初は「アラブの春」という言葉ではなく、「ジャスミン革命」と呼ばれていた。「アラブの春」という言葉がいつの時点で生まれたのか不明だが、「アラブ」という共通要素で語る言葉である以上、アラブの複数国で政変が起きてからだろう。それは2011年になってからのことだ。
http://www.lemonde.fr/afrique/article/2011/01/05/tunisie-nous-vivons-un-mouvement-sans-precedent_1461433_3212.html ルモンドの "C'est bien un mouvement sans precedent que nous vivons là pour la Tunisie"という見出しの記事は2011年1月5日付で、チュニスの騒乱を伝えている。ルモンドはフランスを代表すると言ってよい媒体である。
こちらは週刊誌であるL'Express誌の1月10日付。 ’Le president Ben Ali condamne "des actes terroristes"’
http://www.lexpress.fr/actualite/monde/afrique/le-president-ben-ali-condamne-des-actes-terroristes_951258.html こちらはメジャー媒体ヌーベルオプセルバトゥールの関係媒体のRue 89である。’Emeutes en Tunisie apres l'immolation d'un jeune chomeur’と題する記事は2010年12月26日付でチュニスの騒乱を伝えている。
http://rue89.nouvelobs.com/2010/12/26/emeutes-en-tunisie-apres-limmolation-dun-jeune-chomeur-182422-0 こちらはFrance24。’Le vent de la contestation souffle sur Tunis’と題する記事は12月27日付でチュニスの抗議運動の高まりを伝えている。http://observers.france24.com/fr/content/20101227-vent-contestation-arrive-tunis 宗主国だったとはいえフランスにとって外国であるチュニジアの模様を扱った記事がいつまでさかのぼれるかわからないが、少なくとも「アラブの春」を無視していたと言えるのだろうか。そう書くのは当時筆者自身が「アラブの春」の起源を扱った番組の為に当時のルモンド紙や(雑誌ではあるが)メジャー媒体のヌーベルオプセルバトゥール誌などの記事を少なからず参照した記憶があるからだ。
こう書いたからと言って別にフランスの新聞がクオリティが高いと言うつもりはない。むしろ、言論の自由に乏しい、という点ではイベルボワン教授に同感と言ってよい。しかし、フランスの大手メディアが「アラブの春」を黙殺したという話はどうなのか。そう思うのは筆者自身が先述の通り、「アラブの春」の情報をフランスの大手メディアを通してリアルタイムで読んでいたからである。
またパリの著述家パスカル・バレジカ氏は2月4日に本紙に「フランス、チュニジア、未来...」(La France, la Tunisie, l’avenir…)というテキストを寄稿している。翻訳の時間を計算すればテキストが書かれたのは1月中のことだ。
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201102041733295 この中で、バレジカ氏はチュニジア政府とフランスの政治家の癒着を問題にしている。
「1月半ば、フランスの政治家たちは嘆かわしいショーを披露してくれた。1月13日木曜の夜、ベンアリは従来どおり、「フランスの友人」だった。11日の火曜日、フランスの外務大臣ミシェル・アリオ=マリはフランスの警察官ならチュニジアの警察官よりもっと巧に暴徒を取り締まることができるとフランスの警察官をチュニジアへ派遣することを提案した。しかし14日にベンアリが慌ててチュニジアを発つと、すでにベンアリはフランスにとって好ましからざる客になっていた。だが、チュニジア人たちはフランスの政治家たちがチュニジアの自由にとってほとんど何も寄与しなかったことを忘れはすまい。」(フランスからの手紙)
サルコジ大統領を冠するフランス政府は当初、「アラブの春」というより、「ジャスミン革命」をつぶそうとしたのは確かである。しかし、フランス政府は「ジャスミン革命」が消火不能と判断してから、ジャスミン革命擁護の側に転じて、30年来チュニジアの独裁者だったベン・アリを疎んじていく。
チュニジアで起きた政変はやがてエジプトやリビアに飛び火していくのだが、フランス政府はこれに至ってここぞとばかり、「アラブの春」に便乗して、自ら重要なプレイヤーとなってカダフィ政権打倒の主要戦力となって行った。「アラブの春」をメディアで賛美して、フランス政府を煽ったのは「新哲学者」を自称するベルナール=アンリ・レヴィであり、レヴィは自らリビアまで足を運び、反体制派に同調していた。メディア人のレヴィがリビアから「アラブの春」をレポートしている記事は大々的に報じられていた。そればかりか、サルコジ政権のエリゼ宮のウェブサイトにも掲載されていた。ちなみにベルナール=アンリ・レヴィに代表される一群の「新哲学者」はもともと反ソ連であり、反共的立場を取ってきた人びとである。その代表格でメディアの寵児が「アラブの春」を支援する立場に立ち、旗振り役を務めていたのだ。そして、逆にロシアが〜すでに共産主義ではなくなったが〜リビアであれ、シリアであれ「アラブの春」に抵抗する立場を取っていた。そこには冷戦時代の確執も匂ってくる。欧州の軍需産業にとってはロシア利権を一掃するチャンスだったはずだ。
筆者は「アラブの春」には欧米の思惑が混じったいかがわしい要素が多分に含まれていると今日も考えている。だが、それはともかく、フランス政府は「アラブの春」に便乗し、自らそれを煽っていくのだ。(ルモンド編集主幹は2013年秋にはオランド大統領に同調してシリアに軍事介入せよと主張していたくらいである)パリ政治学院のファブリス・イベルボワン教授はフランスの大手メディアが最後の最後になってようやく「アラブの春」を報じた、と言うのだが、いったいいつの時点のことだろう。
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