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2015年06月10日13時46分掲載
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文化
【核を詠う】(186) 福島の歌人グループ「翔の会」の歌誌『翔』の原子力詠を読む(2) 「原発の事故後をめらめら燃ゆるもの暴く心と隠す心と」 山崎芳彦
前回に引き続き福島の歌人グループ「翔の会」の歌誌『翔』から原子力詠を読み、記録する。今回は同誌の第49号(平成26年11月29日発行)を読ませていただくのだが、福島原発事故の被災により背負わされた苦難の日々の中で詠われた短歌作品を読みながら、このほど政府・経済産業省が示し、7月にも政府案として正式決定される2030年度の電源構成(エネルギーミックス)において、原発比率を20〜22%としていることに、強い怒りを覚えないではいられない。原子力発電を純国産エネルギー源であり運転コストが低廉で、安定して供給できるベースロード電源として位置づけ、原発なしには必要な電力の供給が不可能であるとする、この原発回帰・重視の政府の電源構成案は、あの福島原発事故がなかった、人びとの苦しみもなかった、さらに今後も原発事故は起こらないと言うに等しいものだ。
福島原発事故について、根本的な問題は何ひとつ明らかにされていない。解決されていない。あの事故がどのようにして起きたのか、何を引き起こしたのか、人びとが奪われた「人格権」が回復されているのか、人々の生活、生きる環境、自然界にもたらし続けている核放射能による影響、核廃棄物に埋め尽くされていく将来の社会。加えて今まさに進行しようとしている原発の再稼働による危険の限りない増大や、原発を必要不可欠な電源とする以上止められない原発のリプレースや新増設、核燃料サイクル事業の推進などを考えるとき、原発による電力ゼロの今こそ原子力エネルギー社会からの脱却に向けて、困難はあっても前進しなければならないはずであろう。 考えてみれば、この国で核発電が開始されて、50年にもならないなかで、「安全神話」を誇った原発の、あの深刻な事故が起こったのである。あの事故以前にも、さまざまな事故があり、隠蔽されもしていた。原発作業員の被曝による発病や、死も取りざたされていた。学者・研究者・医学者からの警告や、詩人、歌人、ルポライターによる作品もあった。原子力エネルギーを科学技術文明の発展の担い手とすることの誤りを認識し、人類の未来を危機におとしめようとしている原子力マフィアグループの悪魔の行為を許さないための人々の力を大きく強くしなければならないと思う。
月刊「科学」(岩波書店発行)の2015年5月号に、「現代思想のなかの原子力発電所」と題する戸谷洋志(とやひろし、大阪大学大学院後記博士課程、日本学術振興会特別研究員)氏の論考が掲載されているのを読んだが、原発の危険性はどこにあるのか、原発をめぐる倫理はどのようなものか、原発と人間の想像力はどのように関係するのかについて、現代思想の主要な論点として海外の哲学者の言説を引用しながら概観する論文には触発される内容が豊かだった。つまみ食い的に引用するのは論者に申し訳ないのだが、少しだけ抽かせていただく。
ドイツ出身のギュンター・アンダース(1902-1992)は原子力エネルギーの技術を強く批判し反核活動家としても活動した哲学者だが、その言説について、戸谷氏は、「アンダースは、原子力エネルギーの技術が発明されたことによって、人間の存在のあり方が決定的に変更された、と主張する。かつては、人類は未来にわたって恒久的に存続するものであると素朴に信じられてきたが、核兵器の発明によって、そうした信頼は失われることになった。核兵器は人類自身を絶滅させる力を人類にもたらしたからであり・・・ここに原子力エネルギーの技術が持つ特殊性がある。」「原子力エネルギーによって、人間がいつでも絶滅しうる状態にある以上・・・人間は存続を猶予されているという仕方で存在するように、存在の意味を変更されたのである。」などまとめて紹介している。 また、「1986年に発生したチェルノブイリ原発事故を受けて、アンダースは現代社会が置かれている慢性的な『非常事態』を指摘し、そうであるにもかかわらず『殺戮機器』としての原発が法によって保護され、それどころか推奨されているという事態を強く批判している。」ことも挙げている。
また同論文の中で戸谷氏は、ドイツ出身のユダヤ人哲学者のハンス・ヨナス(1903-1993)による、科学技術文明における盲目的な進歩という危険性についての言説について触れる。 「ヨーナスは、核兵器が持つ圧倒的な破壊力を認めながらも、本当に危険なものは破壊力そのものではなく、この破壊力を目の当たりにしながらテクノロジーの発達に歯止めをかけることができない社会のあり方、すなわち科学技術文明であると指摘する。」 「ヨーナスに拠れば…近代以降の自然科学の発達に伴って、技術は単なる手段であることをやめ・・・科学技術は到達すべき最終目標を見失い、・・・技術の進歩は盲目的なもの・・・そのテクノロジーが人間にとって倫理的に適切なものであるか否かは問題にならない。」こと、「もっとも危険なのは、あらゆるテクノロジーを進歩へと駆り立てる科学技術文明の構造であり、原発はその危険性が先鋭化した一つの現象」とし、「ヨーナスは科学技術文明における新しい倫理学の構築を訴える。しかしここでも原発は大きな問題を投げかけることになる。」として、原発をめぐる倫理の問題について考察する。
原発をめぐる倫理の問題について、「原発は遠い未来にまで影響を与え、私たちは不可避的に未来の世代と関係することになる。言うまでもなく、まだ生まれていない人間と討議をすることはできない。では、原発をめぐる倫理はどのようにして正当化されるのだろうか?」という問題について、「原発が産出する放射性廃棄物が、自然放射線レベルにまで放射能を低下させるには、少なくとも10万年の時間がかかる。そうである以上、万が一にも原発が甚大な事故を引き起こしてしまえば、私たちは数百年後、数千年後、数万年後の人類を傷つけてしまう可能性がある。もちろん、未来の世代が被害を受けるとき、私たちはすでに死に絶えている。そうである以上、未来の世代は私たちを訴えることも、裁くこともできない。」ことから、ヨーナスは「現代のテクノロジーが持つ長大な時間の地平を指摘し、当事者が同じ時代に生きて・・・相互に関わり合い、討議をすることができなければ民主主義は成り立たない」以上、「まったく新しい倫理の形態を模索しなければならない」として、新しい倫理の中心的な概念を「責任」と表現し、「未来の世代は私たちの力によって脅かされており、そうであるために私たちは未来の世代に対して責任を負う」、「こうした観点から、科学技術文明において求められる倫理を『あなたの行為の影響が、地上における真正な人間の生命の存続と両立するように、行為せよ』として定式化している。」と、戸谷氏は述べる。
このヨーナスの「民主主義の枠組みを逸脱する」思想に対して、他の哲学者の「民主主義の理念と整合する形で未来の世代への責任を基礎づけようとする」討議倫理と呼ばれる学派の哲学者の主張をも戸谷氏は論究しているが、ここでは触れない。その哲学者たちも「人類の種の生存を確保すること」という責任、討議倫理の原理に照らして原発の運用を許容できないとの主張をしている。「原発が未来の世代の生命を脅かす可能性をもち、且つそれが回収不可能である以上、原発の運用は倫理的に許容できない」とするものであることを戸谷氏は明らかにしている。
整理しきれていない筆者の戸谷論文からの引用が長すぎている。同論文は、さらに原発と想像力の問題についての論考を行っているのだが、重要な内容を展開している。「原発をめぐる民主主義的な討議の限界」、「原発の破壊力に見合う想像力の形成」、「遠い未来を表象しうる想像力の形成」についての論述だが、次回に触れたいと思う。
それにしても、原子力発電をこの国のエネルギー政策の根幹として推進している政府・原子力マフィアグループの企みは、同時に原発事故被災者の苦しみの現状、将来不安と実際面での被害の深刻化、生命・健康への影響についての非人道的な政府・東電の対応、被害補償・賠償の「軽減」方針と重なり、まさに倫理を踏みにじる政策・対応をより強めている。そして、各地の原発再稼働が進めば、再び三たびの事故は、どれほど規制基準への合格証が乱発されても、いや、されるほど避けがたいことは、これまでのさまざまな原発事故の歴史を振り返れば明らかではないのか。 福島の歌人たちが詠う『翔』の作品を読もう。
▼『翔』第49号(平成26年11月29日発行)より
◇燃え尽きるまで(抄) 桑原三代松◇ 不幸なる事故にはあれど除染にて雇用を増やす我が福島か 人のゐぬ山の部落を除染する我も悲しき福島の民 除染する効果のほどは分からねど今日も黙して鍬を打つなり ひぐらしの響く夕べを下らむか除染を終へて帰る山道 朝夕に雉の声聞く山里の除染をしつつ心を洗ふ かみしめて過ごさむ今日も良き日なり己が命の燃え尽きるまで
◇遠き人からの血(抄) 中潟あや子◇ 何もせぬことの自由と為すことの無きさみしさの交はる川ぞ 震災の追悼の場に国旗あり 日の丸にわれも帰属するのか 遠きとほき人からの血か愛らしき顎もつ赤児娘にさづかりぬ みどり児は昏き記憶の奥処より笑みてこの世に紛れむとす
◇余所者の目(抄) 波汐國芳◇ この夕べ窺ふごとく裏畑に菜の花立てりセシウム立てり おお福島 チェルノブイリに凭れつつ傾きかけてこぼるるこころ 余所者の目もて福島見る人らほんとの何がみえるといふの 福島をうつくしまなんて浮島の波のまにまに揺るる危ふさ 廃炉への道なりといふ 行き行きて遠すぼまりの点手繰るなり 福島は日に日に寒し 盗まれし陽の核爆ぜて其が欠けたるを 瓦礫より起ち上がりつつ咲く花の浜昼顔は移さむわれへ 復興は起つ心ぞや朝風に重機目覚めて運びゆくなり
◇戦争の影(抄) 伊藤正幸◇ 原発事故にいくさを重ね思ひをり避難の列の黒々と見ゆ
◇ブイを哀しむ(抄) 橋本はつ代◇ 原発事故の収束いまだつかざるに再稼働とや吾諾はず 汚染土の行方決まらねど始まりし袋の劣化目のあたりにす
◇満月笑む(抄) 児玉正敏◇ ミクロからメガクラスまで揃ひたり町内会の要望事項 食べて見せ食べさせてみせ疑ひの皮をはがして安心を食ぶ
◇戦なき世を(抄) 古山信子◇ セシウムの雨に打たれて咲く花のくちなし怪しく香りを放つ
◇白鷺の翼(抄) 渡辺浩子◇ 白鷺の翼広げていつまでも残るセシウムかき分けて行け 三年の避難生活終ふるともその傷口の乾くことなし 原発の建屋爆づるが今もわが胸に聞こえつ氷裂く音 原発の警鐘鳴らしし短歌あるに為政者たちよ気付かざりしや 関に散る山桜ありセシウムの色をまとひて踊りてをりぬ
◇暴く心と隠す心 三好幸治◇ 電力を生むためなれど原発は事故を起こして核兵器めく 夢のある神話と惨事を生む神話あるを知らさる原発事故に 原発の事故後をめらめら燃ゆるもの暴く心と隠す心と 震災に悪乗りをなす文明か津波火災や原発事故と 温暖禍・放射能禍の不始末に地球はいかなる仕返しなすや 除染うけ絡む樹のなき傾りより葛は舗道に鎌首擡ぐ 寸寸の活断層にこの国は満身創痍ぞ原発無謀 後追ひの惨を避けんと書物にてチェルノブイリの現実辿る フクシマとチェルノブイリは畏れなき科学の傲りを叩きのめしつ 文明の驕りにセンサーあらざれば自壊しゆくか地球を病ませ
◇浜ゑんどう(抄) 上妻ヒデ◇ 今年また砂浜に咲く浜ゑんどう被曝しをれば怪しく輝く
◇清らな瞳(抄) 波汐朝子◇ 除染より逃れし芙蓉ぞつくりと芽を立ちあげて力むが如し この夏も芙蓉の花の真白きが一際冴ゆるはセシウムゆゑか 僅かなる月影にさへ削がれたる汚染土の山怪しくひかる わが庭の汚染土の山隠さむと咲かす夕顔の花溢れたり 被曝より四年目迎へ四歳の曾孫を招くセシウム減りしと 息子らと合流すとて日光へ高速道ゆく夫八十九歳
次回も歌誌『翔』の原子力詠を抄出、記録する。 (つづく)
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