戦争法と9条の関係に注目があつまっていますが、もうひとつ、 刑訴法改正にもりこまれた盗聴法の拡大が憲法21条がわたしたちの権利として明記している通信の秘密を侵害するものだという点については、ほとんど関心がもたれていません。日弁連も盗聴法の拡大を容認する事態になっており、非常に危機的です。以下、ブログに書きました。関心のある方は御読みいただければと思います。
以下、ブログ「No more Capitalism」から
http://alt-movements.org/no_more_capitalism/modules/no_more_cap_blog/details.php?bid=227
戦争関連法案に注目が集る一方で、盗聴法の改悪には残念ながら大きな関心が寄せられていない。いやそれどころか、盗聴法の改悪を事実上黙認してしまいがちな傾向すら見られる。
3月18日に日弁連は取調べの可視化の義務付け等を含む「刑事訴訟法等の一部を改正する法律案」に対する会長声明を出した。この声明では「改革が一歩前進したことを評価し、改正法案が速やかに成立することを強く希望する」と述べ、刑訴法改正に盛り込まれている盗聴捜査の大幅拡大という看過できない内容については以下のように事実上の容認の態度を示した。
「通信傍受については、通信傍受が通信の秘密を侵害し、ひいては個人のプライバシーを侵害する捜査手法であることから、人権侵害や制度の濫用について危惧の念を禁じ得ない。当連合会としては、補充性・組織性の要件が厳格に解釈運用されているかどうかを厳しく注視し、必要に応じ、第三者機関設置などの制度提案も検討する。」
会長声明は、「通信傍受が通信の秘密を侵害し、ひいては個人のプライバシーを侵害する捜査手法であることから、人権侵害や制度の濫用について危惧の念を禁じ得ない」と述べながらも、盗聴法の改悪に明確に反対するのではなく、逆に、盗聴捜査拡大を容認して、その実施を「注視」し、第三者機関の設置を提言するというのだ。日弁連がどのように「注視」しようと何らの歯止めになるわけではない。また、第三者機関の制度化についても、これを刑訴法の改正案に組込むべきだとすら述べず「検討」するというにとどまり(つまり何もしないということだ)、実現可能性も法的な縛りも要求しない。
会長声明は、「通信傍受が通信の秘密を侵害し、ひいては個人のプライバシーを侵害する捜査手法であることから、人権侵害や制度の濫用について危惧」を深刻に受けとめているとはとうてい思えない。日弁連会長は、憲法21条に次のように書かれているの忘れてしまったようだ。
「第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。」
憲法は国家権力を制約する法規範であるから、上記21条は、国家の捜査機関が通信の秘密を侵してはならない、と明確に述べているのである。戦争放棄を定めた9条で交戦権を禁じているように、21条では盗聴を禁じているのである。
だから、現行の盗聴法が国会で議論されていた当時、この憲法の規定と盗聴捜査の合法化の関係が繰りかえし議論された。戦後長らく盗聴捜査が違法とされた根拠が21条にあることははっきりしていたのだ。この議論の過程で、政府は強引に「解釈改憲」を行ない、盗聴捜査を例外的な捜査手法とすることで21条で保障されてきた私たちの権利を奪ったのだ。対象犯罪を限定し、通信事業者の立合いや裁判所による関与など、他の捜査手法にはない制約が課されることになったのは、この憲法の規定に基づく国会での攻防による妥協の産物であるが、いずれにせよ私たちの権利が制約され、その分、国家権力はその自由を拡大した。
現在の国会での議論では、様相が一変し、盗聴捜査の拡大が憲法21条に抵触するのではないか、という原則的な批判すらほとんど聞かれず、マスメディアも憲法と盗聴捜査の関係に無関心であり、日弁連の会長までが解釈改憲の御先棒担ぎをやり、通信の秘密やプライバシーが捜査機関によって危機に晒されてもそれを黙って見ている(「注視する」とはこのことだ)という事態に陥いってしまった。
繰り返すが、盗聴法の改悪は、見過すことのできない解釈改憲である。通信の秘密は私たちの不可侵の権利である。いったい、どのように解釈すれば、刑訴法改正に盛り込まれた大幅な盗聴捜査の拡大が合憲だということになるのか?
盗聴捜査は、現行法では、主として薬物や銃器犯罪であるが、刑訴法が改正されてしまうと大幅に対象犯罪は拡がる。政治運動や市民運動などで警備公安警察が逮捕容疑とするような「犯罪」類型や政治家が選挙や不正の容疑で検挙される際に用いられる「犯罪」類型やジャーナリストなどの取材への弾圧に用いらる「犯罪」類型が、改正される盗聴法では盗聴捜査が可能な対象になる。政治家も市民運動の活動家もジャーナリストも権力に抗うための権利を奪われる可能性が大幅に大きくなることは明らかなのだ。
盗聴捜査が市民的自由を奪うというのは過剰反応だと思われるかもしれないが、このことは憲法がはっきりと自覚していることでもある。そもそも憲法21条は、第一項で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と述べ、この市民的自由との関わりで通信の秘密を権利として明記している。
このように、通信の秘密が権力に侵害されるということは、同時に、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由が権力によって侵害されるということと密接に関連するということを憲法は自明のこととして警告しているのだ。言い換えれば、政権は、自らの権力を維持するために、21条のような憲法の制約がないとすれば、警察などを動員して、対立する主張や運動に関するコミュニケーションを監視し、この監視をふまえて、運動や言論を弾圧しようとする、ということを憲法は危惧しているのだ。
民主主義が機能するには、政権への異論や反政府運動の自由が保障されることが大前提としてあり、この自由は、人びとが監視されることなく自由に意見を交換するだけでなく、権力に監視されることなく、行動を起すために、集団を組織することができなければならない。21条の文脈からすれば、盗聴捜査は、表向きは一般的な刑事事件の捜査のようにみせかけながら(一般刑事事件だったら盗聴捜査が許されるというわではない)、市民的自由と民主主義の根底に関わるような政治的な弾圧に向う傾向がある、ということだ。盗聴法の拡大は、確実に警備公安警察による監視の強化をまねくという意味で、監視警察国家化がこれまでとは比べものにならないほど強化されるだろう。
権力が監視したがる通信とは、権力に抵抗する集会、結社及び言論、出版といった表現の自由と密接に関わる通信であるということが、歴史の経験からかなり確実なことだ。盗聴捜査が拡大されればされるほど、いわゆる一般的な刑事事件だけではなく、政治活動や社会運動といった分野に向けられるこのことを憲法21条は明確に自覚しており、そうだからこそ通信の秘密を侵害することを無条件で禁じたのである。法務省が自ら憲法を逸脱する解釈改憲の先頭に立つこの国は、もはや立憲民主主義の国家とはいえない。
盗聴法の改悪は、戦争法案とともに、解釈改憲であり、現行憲法を明確に逸脱する。戦争法案が廃案とされるべきであるのと同様、盗聴法改悪もまた絶対に認めてはならない。21条もまた9条同様、深刻な危機に立たされていることを私たちは自覚しなければならない。
(付記) 現行法のもとでも、盗聴捜査の実態はほとんどわかっていない。毎年国会に警察庁と法務省から実施報告が出されているが、具体的なことは何ひとつわからない。そもそも捜査機関がどのような盗聴装置を用いているのか、この装置が適法なものといえるのかどうかすら検証されたことがない。国会は予算決算の審議においても盗聴装置の実態を確認していないし裁判所も同様だ。違法な利用がなされていたり、違法な情報収集か可能なプログラムが組み込まれていたりしたとしても、あるいは、盗聴捜査で取得した通信内容を違法に収集することができないという確証は得られていない。
盗聴捜査で取得された個人情報が捜査機関内部でどのように共有されているのかもわからない。わからないことだらけなのだ。このような不透明な現状をそのままにして盗聴捜査の拡大があっていいはずがないのだが、この点についても国会でほとんど議論されていないのではないか。警察や法務省はかたくなに盗聴捜査の実態を開示することに抵抗しており、これを国会は突き崩すことができていない。警察は国会や裁判所よりも実効的な権力としては優位にある。
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