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2015年07月12日01時39分掲載
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世界経済
ギリシャ問題2 ~SYRIZAの勝利とギリシャの政治的風土~ 本山美彦(「変革のアソシエ」共同代表・京大名誉教授)
「急進左派連合」(ギリシャ語でSYRIZA = the Coalition of the Radical Left)が、対外債務返済義務の不履行に対して、西側陣営のマスコミから強烈な批判と嘲笑にさらされている。 本稿では、SYRIZAを勝利させたギリシャの政治的風土を素描しておきたい。
■ギリシア現代史から 戦中からの左派と右派の対立
ギリシャ人には大衆抗議の社会的記憶がある。 第二次大戦後の1946~49年、ナチス・ドイツから独立したギリシャは内戦で苦しんだ。英米の支援を受けた中道右派政府とギリシャ共産党(KKE)が組織する共産主義ゲリラとの間で生じた内戦である。 第二次世界大戦中と戦後の共産主義ゲリラを支援したのは、ユーゴであった。反ナチスのゲリラ闘争によってドイツ軍を追い出したユーゴは、同じゲリラ仲間のギリシャの共産主義者たちに自国領内での拠点を提供していた。戦後はギリシャで左右の激突による内戦が生じた。しかし、ソ連がチトーを切り捨て、ギリシャのゲリラに冷淡であったことから、自由主義陣営を防衛するとした米国の介入によって、内戦は右派の勝利に終わった。ギリシャ共産党は1946年に非合法化された。しかし、左右対立は、その後も長く続いた。
1958年の総選挙において、共産党が支持する「民主左翼連合」が第二党に躍り出た。与党で右翼であった「国民急進党」は、次の1961年の総選挙では左翼陣営の選挙を露骨に妨害した。左翼の国会議員の暗殺などがあった。 選挙の無効を訴える抗議デモが全国で展開され、1963年に再選挙が行われた。結果は、穏健派の「中央同盟」が勝利し、左派の協力も得て、中央同盟の党首が組閣した。国民急進党の党首、コンスタンディノス・カラマンリスは、1974年に首相に復帰するまで、パリに亡命した。翌年の選挙で新政権は圧勝した。
新政権(ゲオルギオス・パパンドレウ首相)は、内戦時代から収容されていた政治犯の釈放や東側諸国との関係改善を進めた。しかし、こうした動きに対してギリシャを地中海東部における共産主義の防波堤と考えていた米国や、王室、軍部の右派勢力が、この中道左派政権の前に立ちはだかり、ギリシャの政治はふたたび混迷を深めた。
1973年までは、王室が政権樹立に大きな影響力を発揮していた。それに反対する抗議運動はますます激しくなり、資本が国外に流出するという経済危機も発生していた。混迷が深まる中で、政党、王室間の合意が成立し、1967年に総選挙が行われる予定であった。しかし、米国や右翼の思惑通りに事進まず、中道政党である中央同盟が選挙で勝利することが確実に予想されたために、1967年軍事クーデターが発生し、軍事臨時政権(ゲオルギオス・パパドプロス)が樹立された。翌68年1月、米国ニクソン政権がいち早く軍事政権を承認した。
■1967年の軍事クーデター
軍事政権は、反対派勢力を追放、投獄、軟禁状態に置いた。中央同盟のゲオルギオス・パパンドレウは自宅に軟禁され、1968年に死去した。 軍部の暴走に恐怖した国王が逆クーデターを企てたが失敗、国王はローマに亡命した。 軍事政権は、憲法を改正して軍事的独裁を合法化した。米国もイスラエル防衛の要として新政権に武器援助をした。 軍事政権は、価格凍結令、年金の増額、土地の再分配、政府への苦情を2日以内で処理することなど、国民の人気を得る政策を取る一方で、労働組合による集会の禁止、5人以上が集まって集会を行なうことの禁止、新聞の検閲と政府発表をそのまま公表することを義務付けた。共産主義者らは軍事治安警察により逮捕され、アテネとテッサロニキには軍事法廷が設置された。議会は閉鎖されたままであった。 当初、米ソ両国は軍事政権排除の意向も示さず、ヨーロッパ諸国も軍事政権への非難を出さなかった。実質的に軍事政権の批判を行なったのはスカンジナビア諸国、オランダ、ユーゴスラビアにすぎなかった。1972年3月21日、パパドプロスは、摂政を兼任すると共に、共和制への移行を宣言。1973年6月1日には大統領制に移行して自ら大統領に就任した。 しかし、キプロス紛争が軍事政権の命取りになった。1974年、政権はトルコと戦火を交える決意をしたが、陸軍は応じたものの、空・海軍は出撃を拒否した。米国は軍事政権に圧力をかけて、フランスに亡命していたカラマンリスを11年ぶりに帰国させた。軍事政権はカラマンリスに政権を託して、自ら政権を放棄した。
■1974年の軍事政権の終焉と王制廃止 左派政党の復活
新政権(新民主主義党、ND)は、1974年12月8日、国民投票を実施して、ギリシャ王室の廃止を決めた。憲法改正によって、ギリシャは第三共和国になった。1975年1月、軍事政権を担っていた人々は逮捕され、さらに臨時政府関係者はすべて追放された。しかし、政権は安定していた。
軍事政権の崩壊は、急進的な左翼政党である「PASOK」(Panhellenic Socialist Movement、全ギリシャ社会主義運動)を誕生させた(1974年9月)。党首はアンドレアス・パパンドレウ(上記1963年に首相になったゲオルギオス・パパンドレウの息子)である。アンドレアス・パパンドレウはマルクス経済学者であり、当初のPASOKは左翼ナショナリズムかつ急進的な社会主義の色彩が強く、当時ユーロコミュニズムの旗手であったイタリア共産党を右寄りと批判するほどの急進的左翼政党だった。
1974~81年の政権は、カラマンリス率いる保守政党、新民主主義党(ND)が担っていたが、1981年10月の選挙でPASOKが得票率48%で圧勝し、政権が右派から左派に移った。パパンドレウはNATOからの脱退と反米を唱えて選挙に勝利したのである。
1985年には、軍事政権下で創られていた大統領が持つ権限をほとんど無くし、首相および内閣に、より強い権限を与えるという憲法改正を断行した。しかし、左右の対立が激化し、1989年、PASOKは政権を失った。以後、2015年までPASOKとNDとの間で政権が行ったり来たりした。PASOK政権は、1993~2004年、2009~11年。ND政権は、1990~93年、2004~09年、2012~2015年。その期間以外は無所属の政権であった。
国家債務の実情を公表したのは、2009~11年のPASOK政権であった。時の党首は、アンドレアス・パパンドレウの息子のゲオルギオス・アンドレアス・パパンドレウであった。名前は、祖父のゲオルギオスと父のアンドレアスを受け継いだものであった。しかし、この内閣は短命に終わった。
■2001年にアゴラ(広場)という名の市民連合が誕生
古代ギリシアのポリスには、公共建築物や柱廊に囲まれた「アゴラ」と呼ばれる広場があった。市民が政治,哲学などをここで論じた。市場としても利用された。 2001年、この「アゴラ」(広場)を名乗る市民連合ができた。きっかけは1990年代のコソボ紛争である。 ギリシャ人の多くは、セルビア(現在のセルビア・モンテネグロ)に連帯意識を持っている。 まず、両国民の多数はギリシャ正教に属している。歴史的には、両国ともにオスマン帝国に支配されていた。苦難の末に独立を手に入れた両国は、第一次世界大戦でも同盟関係にあった。第二次世界大戦では、両国ともにナチス・ドイツに占領された。冷戦時、両国は2つの陣営に引き裂かれたが、基本的に同じ文化と歴史を持つ両国民の連帯感は変わらなかった。 そのセルビアを1999年、NATO軍が空爆した。コソボ紛争である。空爆で厭世気分に陥ったセルビア人は旧ユーゴのミロシェビッチ政権を崩壊させ、コソボ紛争は終結し、コソボは自治権を獲得した。しかし、セルビアを空爆したNATOの主柱である米国への反感がギリシャ人に広まった。1999年11月のクリントン米大統領のギリシャ訪問には大規模な抗議運動がギリシャで展開された。 そして結成されたのが、「左派の統一と共同行動に関する会議の広場」(通称、広場)である。2001年の「広場」では、「年金と社会保障制度の新自由主義的改革に反対する」という合意が、参加者の間で成立した。 「広場」は政治的な組織ではなかったが、2002年の地方選挙では、いくつかの選挙同盟をもたらしたし、「ヨーロッパ社会フォーラム」(the European Social Forum)に参加する「ギリシャ社会フォーラム」(the Greek Social Forum)を成立させた。このフォーラムは、社会の上層部たちが結成する「ダボス会議」(世界フォーラム)に対抗して、新自由社会とは別の社会を創ることを目標とする会議である。
■2004年 アゴラから「急進左派連合」(SYRIZA)へ
2004年の議会選挙の時に「広場」の各組織は発展解消し、同年1月、正式にSYRIZAという名称の政治組織となった。主な立役者は「左翼運動・エコロジー連合」(Synaspismos=SYN)議長のアレコス・アラヴァノスであった。そして、2008年アラヴァノスが弱冠33歳のアレクシス・チプラスを議長にした。
2010年の、EU委員会、欧州中央銀行(ECB)、IMFの「トロイカ」介入の内容は、公務員の削減と給与の引き下げ、社会福祉の水準切り下げ、政府部門の民営化、所得の低い人ほど税率が高くなるという「逆累進税」の強制等々であった。国民の生活を圧迫して浮いた政府収入の多くが対外債務返済に回された。
緊縮財政の主導者たちは、このことによってギリシャの労働コストが下がり、そのことによって外国からの投資が増大し、ギリシャ経済が回復すると説いてきた。しかし、事実はそうではなかった。 2010年に緊縮政策が導入されて以降、2014年のギリシャ経済の規模は30%ほど縮小した。ギリシャ議会の調査によれば、人口1200万人のうちの250万人が貧困ライン以下の生活を強いられている。さらに380万人がその水準に落ち込む危機にある。失業率は26.6%もの高さである。15~24歳の若者の失業率はさらに高く52%にも上った。
米国の医学ジャーナル"The Lancet"によれば、ギリシャ人の47%は満足な医療を受けることができないでいる。2009~2013年、教育投資は33%もカットされた。2016年にはさらに14%の削減が追加されるという。数千人の教師が失業し、1クラスの生徒数は増大させられた。 1930年代の大不況期ですらギリシャはこのような惨状に苦しめられてはいなかった。
寄稿 本山美彦(「変革のアソシエ」共同代表・京大名誉教授) 日本国際経済学会・元会長。著書に「金融権力」(岩波書店)、「倫理なき資本主義の時代─迷走する貨幣欲」(三嶺書房)、「売られ続ける日本、買い漁るアメリカ」(ビジネス社、2006年)、「姿なき占領」(ビジネス社、2007年)、「格付け洗脳とアメリカ支配の終わり」(ビジネス社、2008年)など。
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