ここ嬬恋村を車で走っていると、日本ではあまり見かけない広大なキャベツ畑に出くわします。そう、嬬恋村はキャベツの有名な産地、春夏の出荷量では全国一位です。高原が広がり冷涼なところがキャベツの栽培に適しているのです。山肌から平地にかけて広がるキャベツ畑は、この季節、最盛期を迎えます。そして、キャベツ畑の先に小高い丘があります。
ここは「愛妻の丘」と呼ばれています。年に一度全国から夫婦が集まって、男が妻に愛を叫ぶイベント「キャベチュー」が行われます。日本武尊がこの地で亡き妻を「恋しい」と言ったことがその由来で嬬恋村の名前にもなっています。僕もここで結婚式を挙げ、妻に愛を叫んだのでした。
■妻との出会い
東京での生活やフランス料理店の経営で疲れきって嬬恋村にやってきた僕ですが、最初にここに来たとき、少し不安に襲われました。夜の明かりも店もなく、夜遊び好きだった自分がやっていけるのだろうか、と。ですが、それは杞憂でした。何もないのが逆に幸いでした。朝、小鳥の鳴き声と木漏れ日、体に当たるやさしい空気や、夜の帳がおりた後の美しい星空や、季節ごとに移り変わる景色が、疲弊していた僕をいやしてくれました。妻にはじめて会ったのはそんなころでした。
観光に出かけようとする僕の眼に留まった女性…それが妻です。当時、派遣会社のアルバイトとして来ていた僕に、同じ派遣会社からひと月だけの短期で来たスタッフとして現れました。そんなに運命的な出会いではありませんが、来たばかりで知り合いもいない妻には良い暇つぶしの相手だったらしく、休みになると近所の林を散歩していました。往復5時間ほどかけて徒歩でコンビニに行ったり、フラメンコギターを持って歩き、道すがら弾いてみたりと、ほのぼのとした夏を過ごしました。まさか結婚するとは思いませんでしたが、それから妻が契約を伸ばし続けて一年、結果、入籍しました。
妻の良いところは初めての料理でも躊躇することなく、何でも食べてくれるところです。ホテルや旅館の経験が長く、サーヴィスのプロですが、特別にフランス料理の知識に明るいわけではありません。一般のお客様の視点として、なじみやすいか、食べやすいのか、うまい、わかりにくい、とっつきにくい等といったところを率直に伝えてくれるので、料理人としてもある程度緊張感がもてます。はっきりものをいう分ありがたい反面、怖いところもあります。「知らない料理だけど、食べやすい。」「初めての人には少ししつこいかな。」なんて臆面なく言うのですから。僕の一番得意なフォワグラ料理を、満点に好きといってくれたのは相性というものかもしれません。
■夕食のためにわが家を改造
夕食を作るのは100%僕の役割です。ホテルにいる間はシェフとしてチームの皆で料理を作りますが、帰宅したときから主夫(しゅふ)にかわります。妻は同じホテルでレストランの接客サーヴィスを担当しており、お客様の引きを待って、片付けと明日の準備を行うので、平均すると僕より90分ほどは帰りが遅くなります。僕が先に帰り、一息ついてビールを飲みながら献立を考え、食事の用意をするのにはちょうど良い時間です。
そもそも、自宅で料理を作るようになったきっかけは近所に寄れるような手ごろな店が無いからでした。都心に住む分には帰りしなに1杯というのは定番とは思いますが、徒歩3分の林道の家路や近所に、やっている飲食店は当然ありませんでした。都心で働いている頃は仕事が終わってなじみのバーに毎日行って、つらつらとたわいもない話をして帰ると、ストレスもそれなりに軽くなりますが、ここでは無理な話です。往復で3分の距離には白樺の樹があるのみですから。
仕事が終わって飲む酒は、居心地の良いインテリアや趣味の合う音楽、適度な照明等はほしいところです。職場でも家庭でもない雰囲気が気分転換になります。そこでまず自宅の照明を変えるところから始めました。間接照明をいくつか購入して、ポイントに配置するだけで蛍光灯の冷たさのない柔らかい光が生まれます。床に座らない設計で家具を購入し、カウンターテーブルを作り、キッチンとダイニングの間に設置して、オープンキッチン風の席を作り、シェードランプを取り付けて、輸入の缶詰やワイン、リキュール、フランス料理の道具類を見せながら収納します。少し大きめの木のテーブルに、休みのたびに店に足を運び、二人で選んだ食器を置いて、花をのんびりと生け、キャンドルをともすと、ゆったりとした雰囲気が生まれました。こういったことを家庭内でやる場合、やり過ぎる位徹底して家庭感を除いたほうが良い雰囲気が出ます。額にフレンチポップなポスターやパリ旅行のときに撮った写真を入れて壁に掛け、布ナプキンを用意したり、シャンデリアを吊ったり、テーブルクロスを天候や気分によって変えたり…音楽は自分の好きなアコーディオンやラテンミュージックをかけてビストロ風にした空間で酒を飲めば、当然雰囲気に合う料理が作りたくなるのは料理人の性でしょうか。
ひと月ほど時間をかけて家の中をデザインして、ビストロ風にキッチンやダイニングが出来あがれば、フランスのママンが家庭で食べるような料理も、レストランのようなコースも、友人を呼んだパーティも出来ます。二人で食べるときは鍋のまま食卓に出して取り分けたり、友人が来たときは料理しながら僕たちも食べられるよう、大きな丸焼きや、鍋で作って皆でつつく。友人を呼んで食事をしても、家の夫婦がもてなしに精一杯で食卓に座れないようでは、かえって気を遣わせてしましますから。自宅といってもここは120人ほどが暮らすマンションタイプの社員寮で、今日は皆で食べたいななどと思い立ってから友人に声をかけても、すぐに来ることができます。なにしろ、会社の友人たちは家のドアの先に住んでいますから。ワインでも日本酒でも、瓶を開け、皆で飲みながら、大きな料理を取り分ければ一体感のある楽しい食卓になると思いますし、お互い気も使わずにすみます。
夏の暑いとき、秋のボジョレ、冬のクリスマスに春の新緑。いい酒が手に入ったから、ビデオを借りてきたから、材料が余ったからetc… なにかしらきっかけやテーマを見つけ、仲間に声をかけて、ワインや日本酒を開け、いろいろな料理を作る楽しみを嬬恋で見つけました。都会ではなく、何もない嬬恋だからこそ、こうなったのだろうと思います。
■夕食に何を作るか
妻に料理を作るときはいつも体調のことを考えます。外食がないからと言って、いつも強い外食風の味付けの料理では心も体も疲れてしまいます。メリハリをつけて楽しみながら、心身が健康になるというのが理想です。妻は当然女性なので、月のものがやってくることを考えます。月のものが始まる前には赤身の肉や、魚など良質のたんぱく質を取れるように、その最中は疲労を強く感じると思うので炭水化物をおいしく食べられるように、月中は野菜をたっぷり食べられるように、といった風に女性の体のながれに食事をあわせ、そこに季節感と仏伊中和のバリエーションを加えることで飽きのこない食事になるよう心がけています。とは言え、専門のフランス料理が多いのはご愛嬌でしょうか。やはりフランスの家庭で昔から食べられているような、ママン風の料理を作りたくなってしまいます。日本もフランスも母親の料理は大ざっぱなものが多いと思いますが、外食のように作りこまず、システマチックに作らない料理だからこそ、ミネラルや栄養が料理に残りやすく、体に優しく感じるのは偶然ではないと思います。
また、どうしても西洋料理が多いので妻から要望があったときは和食でも中華でも、ピザやハンバーガーでもリクエストに応えるようにしています。
予定のない休みの午後に近所で映画ソフトを借りて、宅配ピザを頼み、ビールを飲みながらゆっくりと映画を見る。と言った定番のすごし方も、ここ嬬恋ではまだまだ難しいものがあります。ビデオショップも宅配ピザのチェーン店も30キロ以上先にありますから。なので、ピザを食べながら映画を見たいときはピザを生地から作ります。おいしいパスタが食べたいときは手で打ちます。ハンバーガーが食べたいときはバンズを焼いて、パティを作って…そうやって休みの午後をいっぱいに使って料理を作りますが、不思議と不便だと思ったことはありません。むしろ、大事な人に食事を作るときほど、自分の手を介したものを食べてほしいのが料理人だと思います。それに自宅で妻に作る料理ですから、妻にとっては専属シェフがいるようなものです。いつもこの手で妻に料理を作ることが出来るのですから、料理人冥利に尽きるというものです。料理人の究極の夢といえば、一組のお客様の希望を伺い、材料を選択して、それに適した調理法を導き出し、まっすぐに1から10までなんの中断も無く料理をつくることだと今でも思います。そういった意味では理想的な環境です。
この村は産直の野菜も豊富で、道路わきに野菜を積み上げて、値札と小銭入れが置いてあったり、近所に農家直売所があったりして野菜には事欠きません。夕食の買い物に直売所に行くことも多いです。なじみのお兄さんと話しながら、野菜を眺めていると、今晩の献立があれこれ思い浮かぶようです。
■今夜の夕食は思い出のキャベツ料理
今晩の食事はキャベツとソーセージ、ベーコンのブイヨン煮込み。僕たち夫婦は先の愛妻の丘で式を挙げました。バケツをひっくり返したような、とんでもない大雨の中、妻に誓いの言葉を叫びながら、恩人のオーナーの店の料理でもあったこの料理を思い出し、それから定期的に式を思い出しながら作っている料理です。結婚したばかりの頃はコレばかり作って食べていたので、僕たち夫婦にも思い出の料理となりました。フランスには大きく分けて2種類のキャベツがあり、縮れ葉のサボイタイプと、日本のようなつるんとした玉のキャベツがあります。嬬恋のものは後者に近く、大きく育って葉がたくさん重なり、緻密でしまった玉で生でよし、煮てよしの上質なキャベツです。包丁を入れると待ってましたとばかりにぱりぱりと音を出して切れていきます。そのたたえた水分の多さたるや!
切ったキャベツにソーセージとベーコン、バターと白ワイン少量を加え、ブイヨンでことこと煮ただけの何の技も変哲もない料理ですが、材料のよさから来る、キャベツの甘みが生きていて消化にもよく、飽きの来ない料理です。スープにもキャベツの風味が染み出し、パンに浸して食べると、あたたかい気持ちになるような、そんな気がします。鍋に材料を入れて火にかけ、ゆっくり煮込みの様子をみながら、妻との式や初めて出会った頃、土砂降りの結婚式などを思い出し、このコラムの原稿を書いています。そろそろゆっくり歩いて帰ってきた妻が、今日の夕食のにおいに引き寄せられ我が家のドアをあける頃でしょうか。
寄稿 原田 理 フランス料理シェフ ( ホテル軽井沢1130 )
■「嬬恋村のフランス料理」1 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507250515326 ■「嬬恋村のフランス料理」2 思い出のキャベツ料理 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507282121382 ■「嬬恋村のフランス料理」3 ぼくが嬬恋に来た理由 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508021120200 ■「嬬恋村のフランス料理」4 ほのぼのローストチキン 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508131026364 ■「嬬恋村のフランス料理」5 衝撃的なフォワグラ 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508272156474 ■「嬬恋村のフランス料理」6 デザートの喜び 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509051733346 ■嬬恋村のフランス料理7 無限の可能性をもつパスタ 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509112251105 ■嬬恋村のフランス料理8 深まる秋と美味しいナス 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509202123420 ■「嬬恋村のフランス料理」9 煮込み料理で乗り越える嬬恋の長い冬 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201510212109123 ■「嬬恋村のフランス料理」10 冬のおもいで 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201511040056243 ■「嬬恋村のフランス料理」11 我らのサンドイッチ 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201511271650435 ■「嬬恋村のフランス料理」12 〜真冬のスープ〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201601222232375 ■「嬬恋村のフランス料理」13 〜高級レストランへの夢〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603031409404 ■「嬬恋村のフランス料理」14 〜高級レストランへの夢 その2〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603172259524 ■「嬬恋村のフランス料理」15 〜わが愛しのピエドポール〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201604300026316 ■「嬬恋村のフランス料理」16 〜我ら兄弟、フランス料理人〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201607061239203 ■「嬬恋村のフランス料理」17 〜会食の楽しみ〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201609142355513
■「嬬恋村のフランス料理」18 〜 魚料理のもてなし 〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201611231309133
■「嬬恋村のフランス料理」19 〜総料理長への手紙 〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201707261748033
■「嬬恋村のフランス料理」20 〜五十嵐総料理長のフランス料理、そして帆船 〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201707291234426
■「嬬恋村のフランス料理」21 コックコートへの思い 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201709121148442
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