記憶とは曖昧なものでもあり、鮮明なものでもある。私の最初の記憶は、真っ暗闇の中の一点の光。触ったらロウソクの火だった。しかしそれは、覚えているはずのない年齢のもので、またあり得ない光景であった。けっして楽しいシーンではなかった。 韓国のナヌム(分かち合い)の家に暮らした6人の元慰安婦たちの半生を記録した映画『“記憶”と生きる』を観た。上映後土井敏邦監督は「もう50年以上前(撮影した時点で)のことを話してくれたけれど、それは記憶違いかもしない。だけど彼女たちにとってはその“記憶”こそが真実であり、それを抱えて今を生きている」と話された。
その一言に、ひどく納得した。細かなことに拘泥して「真実だ」「虚偽だ」というバカバカしさ。どんなきっかけであれ、彼女たちは家族から引き離されて兵士の性処理の単なる「道具」として、酷使されたのである。
彼女たちにとって、消すことのできない記憶。忘れたい記憶。あの頃のことを思い出すと「胸がドキドキして苦しくなる」だから話したくないと複数の元慰安婦のハルモニたちが口を揃える。そう言いながら、日本人の男性に、若い韓国人の男性の通訳を通して話す。もちろん、日本語を交えながら。「伝えてほしい。だからあなたに話す。あなたはちゃんと伝えてくれる」と激しく、まるで自分を説得するように言いながら、話していく。土井さんは、「彼女たちが、自分で話すまで質問をしなかった」という。だからよくある慰安所でリアルな行為の説明は少なかった。なのに、迫ってくるのは、彼女たちの“記憶”の鮮明さだろうか。あるいは、帰国後の、日本より強い儒教文化の中での暮らしにくさの故か。
楽しげな宴会シーンがあり、そこで歌われたのも韓国の民謡に交ざって、当時流行ったのだろう、「籠の鳥」という日本の歌だった。私は嗚咽をこらえるのがやっとだった。自分の青春時代の歌が、もし……と思うと楽しげな彼女たちの様子がかえって辛い。 涙と共に“記憶”のそこから浮上したのが、在日で初めてカミングアウトした宋神道(ソウシンド)さんのこと。宋神道と彼女を支えていたグループが多田謡子反権力人権賞を受賞(1997年)したとき、祝賀の席だった。彼女は、酔うほどに踊り歌い始めた。なんと日本の唱歌であり、軍歌なのである。その時も、そっと席を外した。彼女の輝くべき青春の歌がこれなのかと思うと、歴史の過酷な仕打ちにいたたまれなかったのだ。しかもその原因を作ったのは、ほかでもない私たち日本人なのだ。
毎週水曜日は日本大使館の前で抗議行動をする日である。1995年1月17日、、居間のテレビが神戸の地震と家屋の倒壊、火災を伝えている。口々に、大変なことだと心配している。その次の水曜日、初めてソウルの日本大使館の前に行かずに雪のあるナヌムの家で、弔慰を顕したその優しさが本来の彼女たちの姿であって、怒りの対象がは国家権力だとわかる。 言葉で言い表せない辛い経験をしたからこそ、深い悲しみに寄り添えるのかもしない。
ナヌムの家は、いつも穏やかで平和的ではない。意見の相違だったり、考えの違いだったり、生活背景の差だったりの問題が起きる。しかし彼女たちを射抜く共通のこと=日本軍の慰安婦だった=という事実が、彼女たちをしっかりと結びつけている。一人ひとりの悩みの現われ方は違うが根っこは同じなのである。
3時間半という長尺で2部構成になっている。2部は人一倍絵を描いていた姜徳景(カンドッキョン)さんが中心になっている。彼女は、楽しみで絵を描いているとは思えない。自分の“記憶”を描いているのである。その絵を通して私たちにメッセージを送ってくる。肺がん末期の彼女は、死ぬまでに描きたいテーマがあるという「あの人が謝っている絵」「あの人って?」「私の口からは言えない。あの人よ」。 彼女は酸素吸入のマスクの下で、パスポートを持ってくるように友だちに頼む。「こんな姿はみっともないけど、それを(日本人に)晒して本当のことを知ってもらいたい」と。彼女のいなくなった部屋には、「あの人」つまり昭和天皇をモチーフにした絵が数枚残っていた。日本人の誰もが、受け止めなければならない、厳しい図柄だった。
http://doi-toshikuni.net/j/kioku/index.html
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