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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2015年08月17日11時07分掲載
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反戦・平和
植民地支配を正当化した安倍談話−−日本近代そのものを根底から疑う平和主義へ 小倉利丸
戦後70年にあわせての安倍談話はすでにいくつかの批判が出されている。そのなかでも、以下に紹介する経済学者で現代社会思想にも鋭い目配りをしている小倉利丸さんが自身のブロク「No More Capitalism」に書き付けた安倍談話が持つ意味を、この国とアジアの近代総体にまでさかのぼって根底から批判する視点がとても興味深い。談話が、日露戦争を称揚し、「多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた」とする史観そのものに潜む問題点を暴き、「日本の近代と植民地主義は不可分」であることを論証、談話そのものが持つ欺瞞性を明らかにしている。(大野和興)
「戦後70年」という節目の年であり、かつ、戦争法案をはじめとする戦後憲法の解釈枠組の大幅な変更があるなかで出された安倍談話をどう読むか。
この「談話」のなかには、歴史認識としては日本の保守派の俗説をそのまま踏襲した部分があり、これが結果として日本の植民地支配に対する率直な自己批判を回避させたばかりか、逆に植民地支配すら植民地支配ではないかのような認識を言外に暗示するという大きな問題を残してしまった。「談話」の冒頭の箇所がこれにあたる。冒頭で次のように述べられている。
「百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」
19世紀から20世紀初頭にかけて列強による植民地支配が東アジア地域にも拡大してきたことを指摘している点は、間違いではない。問題は日本が、この植民地支配に対してどのような態度をとったのか、である。「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」とあり、日本が欧米列強の植民地主義を阻止した戦争が日露戦争であると解釈している。しかし、
・日露戦争の戦場は朝鮮半島と満州であったこと。つまり、日本の軍隊による朝鮮半島の事実上の占領といえる行為があったこと。 ・日露戦争前の1902年に、第一次日英同盟を締結したこと。 ・日露戦争で英国は日本に艦船など武器を供与したこと。 ・英米独が日本に戦費のほぼ半額にあたる巨額の融資を行なったこと。 といった事実をふまえたとき、日本は帝国主義列強とともに植民地主義に加担する態度をとっており、日露戦争はこの観点からすれば、東アジアをめぐる帝国主義戦争だったというべきではないか。
こうした日本の行動に先立つ1895年、日清戦争後に、日本が台湾の割譲を清に要求するというスタンスにすでに植民地主義=帝国主義がはっきりと見い出せるから、日本の近代化と植民地主義=帝国主義とは不可分のものとして組み込まれていたというべきだろう。
安倍談話では「アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました」とあるが、この立憲主義と独立は同時に、侵略による日本の独立を、立憲主義による国民国家としての合意形成に基づいて正当化するというプロセスが組み込まれていたのであって、近代日本の植民地主義と不可分なものだった。安倍談話にはこうした立憲主義と独立と表裏一体であった侵略への理解がないのだ。これは、欧米諸国が、その立憲主義と植民地主義を表裏のものとして16世紀から19世紀の歴史を展開してきたことにもみられるように、近代世界における支配や覇権の構造にかなり本質的な加害的な構造に関わる。だから、植民地主義への謝罪の問題は日本だけではなく、欧米諸国にも共通するグローバルな「近代」という時代そのものへの問いでもある。
安倍談話では、台湾併合(1895年)と朝鮮併合(1910年)という侵略と植民地支配の最大の問題に全く言及しないどころか、むしろこの頃までの日本の対外政策には何ら問題はなかったかのような解釈が可能な立場をとった。もっと言えば、安倍談話では、日本の逸脱を大恐慌以後の時期、つまり1930年代以降に絞りこんでおり、談話の最後の方で「自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去」を反省するかのようにとれる文言についても、ここでの「過去」には、「行き詰ま」る以前の、19世紀末以降の植民地支配全体の過去は含まれていない。だから、安倍の歴史認識では、台湾、朝鮮併合は植民地支配の範疇にも入れられていない可能性もある。明言を避けているが多分そうだろう。これは日本の歴史修正主義者の主張に沿うスタンスではないだろうか。
だから後段で以下のように述べられているとしても、慎重にその文脈を読むことが必要になる。
「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。」
上の「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては」の箇所は言うまでもなく憲法9条第一項の「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては」を下敷にしている。ここでの9条の解釈は、安倍解釈を前提として読まれるべきだから、集団的自衛権を含む自衛権を保持することを前提にしていると解釈すべきだ。このことは、「すべての民族の自決の権利が尊重される世界」という締めの文言に含意されている。つまり、「すべての」には「日本民族」もまた含まれるから、ここで安倍が言いたいことの中心にあるのは「日本民族の自決の権利が尊重される世界」であって、「すべて」という文言は自民族中心主義の隠蔽のために用いられているオブラートに過ぎない。
いわゆる謝罪や反省についてはどうだろうか。「先の大戦への深い悔悟の念」とか「繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」とか何度か「謝罪」に類する文言がみられるが、この談話全体の構成からみたとき、植民地支配や侵略の被害者への無条件の謝罪ではない。むしろアジアにもたらした被害は、日本が独立を維持し、欧米列強に対抗して「繁栄」を獲得するなかで起きたある種の不可抗力あるいは副作用、日本が列強の植民地支配に屈っしないための必要悪であって、時には自衛の枠を逸脱したかもしれず、その結果としてアジアの諸民族に多大な迷惑をかけたかもしれないことは不本意であるといったスタンスから外れていないと思う。これは文字通りの意味での謝罪にはあたらない、自己弁護のレトリックであろう。
談話は、「繁栄こそ、平和の礎です」と述べ、TPPを念頭に置いているのだろうか、自由貿易を強調しつつ「「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります」という決意表明で締め括られる。これは、繁栄が危機になれば平和も危機になるということを含意しており、かなり危うい言い回しであることは容易に理解できる。平和と繁栄への脅威に対しては積極的平和主義で対抗するということであり、これが現行の戦争法案とリンクしていることもまた明かであるから、これは文言の表面的な感じとは逆にかなり好戦的な態度を内包している。
安倍談話は、いくつかのマスメディアの社説でも言及されているように、「私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはない」と述べ、この談話を区切りとして、謝罪はもうしないという宣言文にもなっている。これはかなり重大な外交上の問題を引き起す可能性のある、とりわけ感情的な表現だ。〈どうせ被害者の感情は癒えないし、許してももらえない〉という逆ギレともいえる傲慢な態度がみてとれるからだ。上で見たように、〈日本にとっては仕方がなかったのだ〉といった不可抗力や自衛のための植民地主義の発想を払拭しない限り、「反省」とはいえないのだが、この意味で、いったい歴代政権はいかなる反省の努力を尽してきたというのか?植民地支配や「従軍慰安婦」問題の決着もついていない原因に戦後歴代政権の対応があり、戦後もまた天皇制と日の丸・君が代を維持するといった戦前・戦中・戦後の一貫性を頑なに維持しようとしてきた態度をそのままに、謝罪を放棄するという宣言をしたことは、進むべき進路もアジアの大勢もすでに見誤っているということではないだろうか。
*
今反戦平和運動に問われているのは、単なる「戦争放棄」ではなく、戦わないことに含意されている敗北や侵略されることの積極的な意味を獲得することだろうと思う。近代の最初からこの国が囚われてきた不安は、列強からの脅威であり(だから日本も列強の仲間入りをしなければならないという脅迫観念に囚われた)、戦後冷戦体制では「共産主義」の脅威(だから日米同盟に依存し、9条という隠れ蓑によって再軍備を「自衛」とか「平和」として隠蔽した)だった。そして今、安倍政権は、脅威を再び中国や朝鮮半島へと向け、「国民」の不安感情を煽ることで政権への依存を維持してきた。
近代の日本は、国家の不安感情を「国民」もまた内面化して同調し、戦争への道を選択したのではないか。これは「立憲主義」である限り、「国民」の感情の問題でもある。とすれば、今必要なことは、戦ってから敗北する(安倍は戦えば勝てると信じているが、この確信には何の根拠もない)ことではなく、むしろ戦わずして敗北することの積極的な意味を獲得することだ。戦争は非戦闘員の方が戦闘員の何倍もの犠牲をもたらす。安倍は戦争で日本がアッという間に勝利するかのような「妄想」に囚われているようにみえるが、むしろ戦後の米国の戦争の歴史をみればわかるように、米国が勝利した戦争はほとんどないから、日米同盟は負ける可能性が高いのだが、だから「勝つ」戦争をすべきだ、ということにはならないのだ。戦争をしないということには、戦わずして負けることも含まれ、このような敗北が不安感情の根源にあるとすれば、平和運動が構築すべきなのは、むしろ積極的敗北主義の思想ではないだろうか。そして、このような思想の創造には、侵略の本性を内包させて成立したこの国の近代を、その起源にまで遡って根底から疑うことが避けられないだろうということでもあると思うのだ。 toshiさんのブログを読むコメン
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