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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2015年09月22日22時27分掲載
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吉田秀和著 「ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿」
音楽評論で著名な吉田秀和氏が1967年から1968年の欧州旅行の際の見聞をまとめたのが本書、「ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿」(中公文庫)である。吉田氏はクラシック音楽がメインだったが、セザンヌなどフランス近代美術などの評論もあり、広い視野をもつ人物だった。そして、この頃、欧州でもっとも大きな話題となっていたのがチェコで起きた「プラハの春」とその夏の終わりに起きた、旧ソ連によるチェコ侵攻だった。
吉田氏は1968年の春にチェコスロバキアを訪ねて、実際にプラハの春の印象を書き送っている。
「チェコの政情が今、微妙に変わりつつあることは言うまでもなかろう。私はこのまちで若干の顔見知りを持ったし、ドイツ語で何事も用がたりるので、いろいろな人と話をする機会があったが、政治のことは、何しろこちらでは外国人でもあるし、深いことは知らないのだから、なるべく触れないようにつとめていた。けれども先方から好んで話しかけてくるのである。今や、プラハ市民は、再獲得した表現の自由の楽しさを満喫しているように見える。彼らは実に無遠慮に思い切ったことを言う。しかも、そこには巧まざるユーモアと機知がともなう。さきの橋上の落書きもチェコ語がわかれば、よほどおもしろいのだろう。そういえば、プラハの案内書にも落書きはここの市民伝来の名物であると書いてある。「ここの人々は、石をもって打つよりは、壁をして語らしめるのを好む」これは、私たちの目の前にくりほろげられている<プラハの春>以前に発行された旅行書の一部である。・・・」
これは1968年5月に吉田氏が年来の念願が叶ってプラハを訪問した時の描写で、「プラハの春」という見出しをつけて一篇にまとめられている。
吉田氏はこの時の滞欧ではベルリンを根城にザルツブルクやウィーンなどに足を伸ばして音楽の演奏を聞いていたようだが、情勢に変化が起きたのは8月下旬で、ザルツブルグからベルリンに帰った吉田氏はプラハの春がソ連の戦車の到来とともに押しつぶされてしまうのを知るのである。
吉田氏はプラハに滞在した68年春の時点ですでに暗い予兆すら感じていた。
「といって、プラハの市民が、ただ良い気になってばかりいるはずがない。私がプラハに出かけようとしていたころも、西欧の新聞や放送にはソ連軍がチェコに進駐する態勢を整えているという話が毎日のように大きく、警告でもあるかのように報道されている時だった。そういうことも彼らは〜ノヴォトニーからドゥプチェクに政権が交代したとたんに、新聞放送その他の一切の検閲が廃止されたので、みんな良く知っていた。ポーランド、ハンガリーの例を見るまでもなく、それは東欧にあっては、ただごとではないのだ。」
吉田氏の文章にあるとおり、チェコスロヴァキアは風刺漫画の巧みな文化を持っていて、伝統的に小国の悲哀だろうが、強国であるドイツやロシアを軍事力で打倒できない以上はペンの力で笑うしかなかったのである。有名な漫画に、プラハの春を率いた兎の姿のドゥプチェク第一書記が駆けていくのを、ソ連のブレジネフ首相らが猟銃で射撃しており、チェコの3人の傀儡政治家たち(彼らは顔を除くと3匹の猟犬として描かれている)がドゥプチェク第一書記を追いかけている1コマ漫画がある。プラハの春が弾圧されたときも壁にはさまざまな風刺漫画が描かれていた。
チェコはソ連の衛星国の1つで、最近では衛星国という言葉も使われることがなくなった。しかし、不思議なことは日本人は米国の衛星国であったにも関わらず、日本人は自国を指して衛星国と呼ばなかったし、韓国についてもそうだった。衛星国という概念は鉄のカーテンの向こう側、社会主義陣営の小国にしか、使わなかった。日本も韓国も米国の衛星国だったことは間違いなく、その意味ではチェコで起きたことは日本にとっても他人事ではないことだった。2009年に自民党政権を破って首相になった民主党の鳩山首相も、「プラハの春」のドプチェク第一書記によく似ているように思われる。米政府と日本国内の猟犬によって放逐されてしまうのだ。
「ヨーロッパの響、ヨーロッパの姿」は特段、政治を書いた紀行ではなく、中心は音楽や演劇などである。68年といえばプラハの春だけでなく、パリでは五月革命も起きたし、世界全体で一種の政治的高揚感があり、それに呼応して文化や芸術の面でも活況を呈していたようだ。ここでは主にベルリンやザルツブルグ、ウィーンの音楽事情が綴られている。
今から思えばこの時代の熱気や高揚感もやがて消費主義に陥り、さらに保守革命の30年に移行する。一方、社会主義圏においては1989年のベルリンの壁崩壊まで、21年間の歳月を要した。今日になって、ようやく日本人は自国を米国の「属国」であると自称するようになった。冷戦時代にはそのような呼び方はほとんど聞いたことはなかった。日本人が自国を属国と呼び始めたのは冷戦崩壊以後、米国の対日構造改革要求に対して、日本政府が自国の利益を第二にして、米国に追随する姿勢が顕著になったことが大きいと思う。冷戦時代はそれなりに日本に対してディーセントな姿勢を示していた米国は冷戦後は明確に部下扱いするようになった、ということなのだ。だからこそ、吉田氏が本書で観察したことは今や他人事とは思えないのである。
村上良太
※アレクサンドル・ドゥプチェク第一書記 「改革派と保守派の間の中間派と目されたドゥプチェクは、「人間の顔をした社会主義」を掲げた「プラハの春」と呼ばれる改革運動を実施した。ノヴォトニーが兼務して個人への権力集中を図った党第一書記職と共和国大統領職の分離を行ったのを皮切りに、これまでプラハ指導部が行ってきた強権的な抑圧政策の廃止を進めた。」(ウィキペディア)
※ソ連軍のプラハ侵攻 「ワルシャワ条約機構軍は1968年8月20日夜から8月21日朝にかけてチェコスロバキアに侵攻した。条約機構軍はチェコスロバキア共産党中央委員会ビルを占拠して管理下に置き、ドゥプチェクら改革派の共産党幹部を逮捕してソ連軍の輸送機でモスクワに連行した。条約機構軍に対し、チェコ人とスロバキア人は非暴力による抵抗を続けたが、モスクワに連行されたドゥプチェクらは最終的に圧力に屈し、ソ連の要求に応じることを余儀なくされた。」(ウィキペディア)
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