みなさん、こんにちは。文学研究科の伊地知紀子です。2015年7月に立ち上げた「安全保障関連法案に反対する大阪市立大学教職員有志の会」が、国会での強行採決を受け、「違憲安全保障関連法に反対する大阪市立大学有志の会(反安市大)」へと名称変更をしました。HP 改訂こけら落としメニューの一つとして、今月から「月命日コラム」を始めます。これは、強行採決が立憲主義と民主主義を仮死状態に追いやった暴挙だったことへの抗議を示すものです。立憲主義と民主主義は、一人ひとりが「自分のこと」として粘り強い努力を積み重ねるなかで築かれてきたものであり、私たちはこうした歴史のうえにあります。仮死状態にされた立憲主義と民主主義が息を吹き返すよう、そして先人からの賜物を次世代へ引き継ぐために、私たちはまだまだ活動を止めるわけにはいきません。
このコラムの初回を担当するにあたって、在韓被爆者の李孟姫(イ・メンヒ)さんと、大阪府松原市にある阪南中央病院の病棟ロビーで初めてお会いしたときのことを振り返らずにはいられませんでした。1992年のことです。阪南中央病院は、日本政府が「人道的立場」から開始した事業である渡日治療の受け入れ先の一つです。李孟姫さんは、広島弁のイントネーションで「ほら、首の後ろを見てください。ここに火傷の跡があるでしょ」といいながら、私の手をぐっととって傷跡があるあたりにもっていかれました。「はい、確かに」と応えると、李孟姫さんはがっしりと私の手を握りしめ力のこもった目で「ありがとう」と何度もおっしゃいました。
李孟姫さんが渡日治療を受けるきっかけとなったのは、1990年にソウルにある日本大使館前で自らビラをまき、農薬を飲んで服毒自殺を図ったからでした。李孟姫さんは、差別を受けることを恐れ、それまで自らが被爆者であることを隠して生きてこられたのです。しかし、この年に日本政府が在韓被爆者に対して打ち出した「人道的立場」からの基金型支援策をめぐって、謝罪もなく抜本的な補償でもないことへの怒りのあまり、抗議行動に出たのでした。
初めてお会いした翌年、私は友人とともにソウルにある李孟姫さんの自宅を訪ねることにしました。眠らないショッピング街として今では有名な東大門市場の北側に位置する「タルトンネ(月の街)」と呼ばれたスラムのなかに、李孟姫さんの自宅がありました。急な坂道に沿って立ち並ぶ小さな一軒家の地下にあたる部分に、二畳ほどの空間がありドアが付けてありました。そのなかが、李孟姫さんの自宅でした。立ち上がると頭を打ちそうな低い天井で窓などありません。失対事業で糊口をしのいでおられるのに、李孟姫さんは私たちに東大門市場でかぼちゃのお粥を御馳走するといって聞きません。
ありがたくいただいたお粥の味は、がっしりと握られた手の触感とともに未だに覚えています。スラムは、再開発のために取り壊されました。李孟姫さんも、今は亡き人です。在韓被爆者の存在は、日本の植民地支配が生み出したのです。こうした戦争被害は、受けた人びとが声を出さなければ、いとも簡単に「なかったこと」にされてしまいます。声を聞こうとする人びとが生まれたときには、かなりの月日が経っていることは珍しくはありません。私たちの「平和」な暮らしは、世界中のこうした被害のうえにあります。だからこそ、私たちは自分たちが立っている地盤がどのような歴史の蓄積のうえに成り立っているのか、遅まきながらでも向き合うことは「無駄」だとは思いません。
李孟姫さんにお会いした後も、多くの在韓被爆者の方々を訪問し、日本軍「慰安婦」にされた方々の元も訪れましたが、子ども世代、あるいは孫世代にあたる私がお会いした方々にとって、未だ戦後は訪れていないことは明らかです。敗戦後70年間の平和な日本は、不戦を誓う憲法9条に加え、植民地責任・戦争責任に向き合わないことによって築かれてきたともいえます。
まさにこの姿勢を示すかのように安倍晋三首相は、今年8月14日発表の談話において、「日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」と述べました。改めて確認しておきたいことがあります。日露戦争の戦場は朝鮮半島です。そして、多くの朝鮮人が日露戦争のなかで殺されたのです。しかも、朝鮮半島が戦場となったのは、日露戦争の前の日清戦争からであり、こうした戦争による被害は、そのときその場にいた人だけが受けるのではありません。家族、親戚、地域、次の世代へと引き継がれます。ところが、安倍首相は談話のなかで、「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。」と述べました。しかし、加害者が「これで謝罪を終えよう」ということはできません。加害者は、永遠に謝罪を続けなければならない。少なくとも被害者が「もういいです」というまでは。それが戦争である。
安全関連保障法案が強行採決された今、日本が戦場へ参加するとなれば、動員の対象はまず日本国籍の者となります。私はこれまで、日本国籍の学生には「翌年に徴兵制がしかれ徴兵の対象となる可能性を念頭に、今の平和がどのようにしてあるのかを考えてほしい」といってきました。そして、「同じ教室にいる日本国籍ではない学生に対して銃を向ける事態が起きたとき、自分はどのように判断し行動するだろうかと考えてほしい」とも。こうした問いかけを続けているのは、私がフィールドワークでお会いした人びと交わした約束もあるからです。
私自身は、在日朝鮮人の歴史と生活について四半世紀近く学んできました。在日朝鮮人の歴史もまた、日本による植民地支配が生み出したものです。大阪には特に朝鮮半島最南の済州島から来た方が多くおられます。この関係から、済州島でもフィールドワークをしてきました。村に住んでいるとき、日本の植民地支配を体験した方々から、当時のことを細かく伺いました。村の人びとは「紀子はこんなことは習っていないだろう。日本に戻ったら、私たちがこんなに辛い歴史を生きたことを学生たちに教えてくれ。」といわれました。私は、この約束を守ろうと学生たちに問いかけ続けてきたのです。
今、私が教えている学生たちは多様です。学部生の多くは日本国籍ですが、韓国国籍の学生、韓国国籍と日本国籍の親を持つ学生がいます。大学院生は、中国国籍、ベトナム国籍、アメリカ国籍、韓国国籍であり、韓国国籍のうち一人は在日コリアンで、その学生のおじいさん、おばあさんは朝鮮籍です。このように、学びの場は多様な学生によって成り立っています。
同様に、日本には多様な国籍をもつ住民がいます。親が、パートナーが、子どもが、親戚が、友人が外国籍だという方もおられます。日本が戦争へ参加すれば、敵対する国家の国籍を持つ人は、この日本でどうなるでしょうか。親子が、夫婦が、友人同士が、引き裂かれ、敵対関係となるのです。世界には、敵にしていい国家と味方にしていい国家があるわけはありません。在日コリアンの友人は、今回の事態が進むなかでふと次のようにつぶやきました。「戦争が本当に起きたら、自分らはどっかに収容されるんちゃうか」。
私たちはもう加害者を生み出してはいけない。私たちは問われているのです。誰にでしょうか?戦争で亡くなった世界各地の人びとに、戦争で傷つき心を病んで生きざるをえなかった人、家族そして地域にです。反対の声を挙げ続けましょう。大声でなくてもいい、つぶやきでいいから、声を合わせていきましょう。
2015年10月19日 伊地知 紀子 (本稿は以下のサイトからの転載です)
https://sites.google.com/site/ocucolleagues/home/koramu 違憲安全保障法に反対する大阪市立大学有志の会
※伊地知 紀子教授の著書には以下のものがあります 『消されたマッコリ。-朝鮮・家醸酒(カヤンジュ)文化を今に受け継ぐ-』社会評論社. 『生活世界の創造と実践−韓国・済州島の生活誌から−』御茶の水書房 『在日朝鮮人の名前』明石書店 ほか
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