さそりとカエルが登場する古典的なジョークがあります。そのジョークは作家・開高健によるアンソロジーで知ったのですが、開高によるとベトナム戦争に即して、語られていたそうです。
川を前にして、さそりが近くにいたカエルに提案する。
「あんたが対岸に渡るんだったら、よかったら、あんたの背中に私を乗せて行ってもらえないか。」
カエルは断る。
「あんたを背中に乗っけたら、刺されるからね」
すると、さそりはそんなことはありえない、と説いた。
「もしあんたを俺が刺したら、俺も溺れて死ぬからね」
カエルはそれもそうだと思い直して、さそりを乗せて対岸に向けて川を泳ぎ始めた。ところが、川の真ん中あたりまで来たとき、カエルは背中に鋭い痛みを覚えた。さそりが刺したのだ。カエルはうつろになっていく意識の中でさそりに尋ねた。
「なんでこんなことしたんだ?」
カエルとともに沈み始めていたさそりは答えた。
「なぜって、俺はさそりだから」
このジョークはいろんなことを考えさせてくれるます。起源をたどったら、ベトナム戦争よりも、もっと古いジョークかもしれません。ベトナム戦争とこのジョークがどう関係しているのか、読んだ内容は忘れてしまいましたが、想像すると米兵とベトナムの解放戦線ゲリラとの間の立場の相違を語るものだったのかもしれません。
「なぜって、俺はさそりだから」という言葉はそれまでさそりとカエルとで交わした会話の中の論理の枠組みをダイナマイト爆破するようなパンチ力を持っています。しばしば国家間あるいは民族間の確執はこの言葉に結びついているように思われます。どんなに慎重に議論を構築しても、最後は「俺はさそりだ」とか、「俺はカエルだ」といったところに収束しがちなのです。
このジョークを人間世界に翻訳してみると、人間は必ずしも合理的な行動を取るわけではない、ということになります。あるいは合理性の判断が個的な生命のレベルと、民族的あるいは生物的なレベルとで違ってくる、ということもあるかもしれません。にもかかわらず政治や経済は比較的単純な「合理的な人間(個人)」を前提に予測を立てたり、政策を行ったりします。従って、そこにはずれが生じます。現代においてはさそりの行動は自爆テロととらえることも可能でしょう。
■ウィキペディアに英語版の概略が記載されています ’A scorpion asks a frog to carry it across a river. The frog hesitates, afraid of being stung, but the scorpion argues that if it did so, they would both drown. Considering this, the frog agrees, but midway across the river the scorpion does indeed sting the frog, dooming them both. When the frog asks the scorpion why, the scorpion replies that it was in its nature to do so.’
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Scorpion_and_the_Frog
ウィキペディアの記載によると、さそりとカエルのジョークは1954年に遡るが、似た話として「さそりと亀」というのがあり、12〜13世紀のイランに遡るとされます。ジョークは作者不詳の民衆知といったものであり、それゆえ、時と場所を超えて、書き換えられ、時代と場所にあったものになって生き残っていくのでしょう。
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