私は夏休みを利用して、ソ連を旅行して来ました。この旅行は、実は新婚旅行でもあったのですが、それは後半で 詳しくお話しいたします。まず始めに、なぜソ連を旅行してみたくなったのかをお話ししましょう。
私は大学に入学した時、第二外国語としてロシア語を選択しました。当時は宇宙競争でソ連が米国にかなり差をつけていた頃で、「理科系の人はロシア語を第二外国語として選択しよう」というビラが高校まで回って来たほどでした。後でわかった事ですが、このビラは玉木英彦先生が発行したものでありました。
ビラの薦めに従い、私は大学では玉木先生の ゼミに入ってランダウ、リフシッツの量子力学などをロシア語で読んだりすることになりました。その後、結晶の対称性の問題を専門とするようになりましたが、この方面はソ連に伝統があるのでロシア語がまあ役に立つています。十九世紀の初めに、ソ連には、フエドロフ、シュブニコフ、べーロフなどという大天才が輩出し、古典的な数理結晶学の基礎概念が出そろいました。今日でも、群拡大の理論などの抽象代数学の手法をとり入れて、主にソ連の結晶学者がこの分野で活発に研究を続けています。このような風土を見てみたいと思ったのです。
今度の旅行でわかったのですが、ソ連の夏は日本の秋のようなものです。コスモスなどの可憐な花が咲きみだれています。この短い夏が過ぎるとすぐに雪が降りだし、長い冬がやって来ます。人々は部屋の内で、際限なく操り返す幾何学模様のカーペットを見つめて生活するのでしょう。 美しいカーぺットを見つめていると別の世界に引き込まれるような気がしました。
さて旅行の話にもどりましょう。私達は八月二十三日に、ソ連船ハバロフスク号に乘って横浜からナホトカへと向いました。船というものは乗客同志がすぐ顔見知になります。実習で乘っていたウラジオストーク大学日本語科のアブラメンコ・セルゲイと知り合い、船長室へ連れて行ってもらいました。 「これは私達の新婚旅行です。もしできることでしたら、船長さんに紀念のサインをいただけませんか。」とお願いしました。そのときのゾルキン船長の笑顏は忘れることができません。「まだ結婚式をしていないのか、それではホールで正式な結婚式をしてあげよう。詳しいことは明朝の会議で決めるが、たぶん明曰の夜九時ということになるだろう。」とサイン一つをもらうつもりが思ってもみない大変なことになり、よくお礼を言って船室にもどりました。
私達の船室は二等でしたが、夜になって乘客係が来て船長がもっている貴賓室に移動させられるというハプニングもありました。そこはトイレの外にシャワーもついているのでした。船長の厚意に感謝して一夜を過ごしました。ところが翌日になって難しい問題が一つ起きました。結婚式の最後にタンゴを踊れという船長の希望です。これはなんとかしなければなりません。ダンスの「ダ」 の字も知らない私達でしたが、運の良い時は良いもので、折よく乗り合せていたダンスの先生が見つかり、特訓を受けることができました。私はとても覚えが悪いので、今晩には間に合わないと先生や見物の乘客逹はだいぶ心配したという話です。 あとは度胸でやるよりしかたがありません。
夜九時になると、「日本人の結婚式がホールで行なわれる。」という放送があり乘客がホール一ぱいに集り式が始まりました。船長が結婚証明書を読み上げ、我々の意志の確認を行ないます。我々はそれぞれ「ダー・力二エシュナー」と答えます。そして証明書にサインして船長とシャンペンで乾杯します。その後、乘員や知らない乘客の人達からいろいろな贈り物を戴くのです。 これにはとても感激しました。乘員から戴いたタテの裏面には実習生のセルゲィが苦労して書いた日本文もあります。その文を書くためにセルゲイは私の持っていた露和辞典を一晩かかえこむことになったのでした。食堂の女性達は特製の大きなケーキをプレゼントしてくれました。
そのうちに、ロシア人の乗客達から「ゴーリコ!ゴーリコ!」という声と拍手が起こり、だんだん強くなります。これは「にがい!にがい !」という意味で、我々はうんと甘くする義務があります。 つまりキスをしろということで、これをやらないと礼儀に違反しますので,やむをえず、二度ばかり行ないました。これ は乗客の皆様へのサービスです。この後も、にぎやかな歌や ダンスが夜遅くまで続きました。私は、たまたま乗り合せた知らない人達から、こんなにも厚意を受けるものかと嬉しくなりました。帰国後も、その時知り合った日本人の乗客の方々から結婚式の様子の写真が送られて来たりして人情の厚さをしみじみ感じております。モスクワ、レニングラード、キエフと旅行しましたが、ソ連の人々は非常に親切で楽しい旅 行でありました。
谷克彦(数学月間の会 世話人)
*青空(1980)に掲載
※玉木英彦(1909- 2013)物理学者。東大教授
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