■ 「日本思想史の成立」という問題
私がここで掲げる主題「日本思想史の成立」とは、「日本思想史」という学問的方法的概念の成立をいうのであって、日本思想史の起源的成立を問うことではありません。その意味ではこの主題を「日本思想の成立」と言い換えることもできます。なぜなら「日本思想」という概念が何らかの形で成立してはじめて、その歴史的な展開が「日本思想史」として問われることになるのですから。ですから「日本思想史の成立」の問題とは「日本思想の成立」の問題でもあるのです。
「日本思想史の成立」という主題をこのように考える私の理解の前提には、「日本思想史」という概念も、その対象としての「日本思想」という概念も歴史的な言説上の構成物だという見方があります。その時期をはっきりいえば近代20世紀の日本に成立したものです。それらは決して日本列島とそこの住民とともに古代風のアルカイック姿をもって自ずから存立したものではありません。
だが日本で近世(前近代プレ・モダーン)と呼ばれる徳川時代の国学者本居宣長(1730−1801)は日本人の言葉も心も考え方も日本列島とその住民に固有のものだということを、日本最古の漢字書記テキスト『古事記』(712成立)の注釈を通じて言い出しました。〈日本的なもの〉の固有性が宣長によって最初に思想的体系性をもって主張されたのです。しかし漢字書記テキスト『古事記』による〈日本的なもの〉の主張には、複合的なものをあえて純粋化していく作為と飛躍と、そして隠蔽がともなわざるをえません。いずれにしろ民族主義的な純粋型としての〈日本〉を、やがて成立する近代民族国家ネイション・ステイト日本が要請していたのです。
私は宣長たち国学者を〈日本的なもの〉の固有主義的な主張者だとみなします。アメリカの日本研究者は宣長らの国学をnativismと訳しますが、それは正しい訳し方です。この宣長らによる〈日本はもともと日本である〉という固有主義は、明治(1868)以降の近代国家形成のなかで民族=国家主義(nationalism)として継承されていきます。そしてこの近代に継承された〈日本的なもの〉をめぐる思惟と志向は、昭和(1925)にいたってヨーロッパ文献学、解釈学的方法をもって「日本思想史」あるいは「日本精神史」を成立させることになります。日本人の思想的テキストだけではない、あらゆる言語表現から解釈的に抽出される「日本思想」「日本精神」そして「日本的民族性」が記述されていくことになります。昭和とは第一次世界大戦を通じて世界先進国の仲間入りをした日本が全体主義的国家へと転身していく時期です。昭和の全体主義国家日本とは中国大陸における帝国主義的覇権を賭けた戦争へと向かう日本です。その昭和日本が「日本思想」を「日本思想史」とともに成立させたということができます。
■ 「日本思想史」とは何であったか
私の日本思想史の始まりは、国学者宣長による〈日本〉創出作業の批判的解読にあります。宣長の『古事記伝』という『古事記』の注釈作業とは実は〈日本〉というものの創出作業であることを明らかにしたのが、私の宣長研究です。ですから私の日本思想史的作業は〈日本〉を創出する宣長国学の解体から始まったのです。私にとって「日本思想史」は両義的です。私は既成の日本思想史を解体しながら、なお日本思想史にかかわっていました。
私は1980年代の終わりの時期、大阪大学日本学講座の授業で唐突に「私はもう日本思想史を止める」といい出したことがあります。日本思想史というものが現実にある学問的な事態にほとほと嫌気がさしたからであります。宣長の『古事記』注釈が〈日本〉を創出していったように、日本思想史が〈日本〉を発見し、〈日本思想〉を記述していく。これは〈日本〉という自己同一性の記述、すなわち「日本とは日本である」といった同義反復的な記述にすぎません。〈理念史的〉日本思想史がこの自己同一性の同義反復的な記述に陥っている一方で、〈歴史的〉日本思想史は〈近代〉の肯定的形成過程の記述か、あるいは否定的思想系譜の批判的記述かといった近代主義以外の方法的視点をもとうとはしていなかったのです。
〈日本〉の自己同一性にかかわる日本思想史や〈近代主義〉的日本思想史が意味をもちえたのは、日本における〈近代〉の再構築が国家的目標とされた戦後日本の60年までの時期でしょう。60年というのは日本の安全保障体制をめぐる国論を二分するような〈安保闘争〉が展開された年です。この60年を境にして日本はグローバルな世界市場における経済大国への道をはっきりととっていきます。われわれが直面しているのは〈後期近代〉と呼ばれる現代世界であることを日本思想史家は気付こうともしません。日本思想史は転換されねばならなかったのです。
■「日本思想史」の方法論的転換
1970年から80年代にかけて私は日本思想史の方法論的な模索を続けていました。私が方法的な転換をはっきり遂げたのは85年にいたってです。私の『「事件」としての徂徠学』(青土社、1990年)はこの転換を表現するものです。私はこの転換を哲学の「言語論的転換」に因んで「言説論的転換」と呼んでいます。簡単にいえば、ある言説の思想的意味を、その時代の、あるいは来るべき時代の言説的空間に向けて何が新たに言い出されたのかという言説の〈事件性〉においてとらえることです。意味を言説的テキストの内部に、あるいは作者の内部に求め、それをテキストから読み出すのではなく、テキストの外部に、同時代の、あるいは時代を隔てた読み手や受け手とのかかわりにおいて見出していくことです。要するにこれは日本の思想的テキストを〈日本的〉同一性の同義反復的な自己確認的言語回路から、あるいは〈あるべき近代〉の歴史遡行的な近代主義者の自己確認的言語回路から解放するための方法的転換をいうのです。
「方法としての江戸」とは、この方法的転換の一つの具現化です。〈近代〉から、〈東京〉から見るという思想史的視点を転換させ、〈前近代の江戸〉から見ることによって〈日本近代〉として実現されたものを批判的に相対化することを目指したのです。私の方法的転換のもう一つの具現化とは、まさしく日本の思想的テキストを〈日本的〉同一性の同義反復的な自己確認的言語回路から解放することです。それは一国思想史の世界化、あるいは一国思想史の自己否定というべきかもしれません。端的にいえば日本の17世紀の儒学者伊藤仁斎(1627-1705)の思想の世界的意味をどうとらえるかということです。ここからまさしく今日ここでの主題に真っ直ぐに入っていくことになります。
■ 東アジア儒学世界
私は1990年ごろからしばしば台湾を訪れ、中国儒学(哲学)研究者と交流をもつようになりました。私は日本の近世儒学の展開を東アジアの儒学世界の中でとらえてみようと考えていました。だがこの時期、儒学の東アジア各地における多様的展開を内包した〈東アジア儒学〉という概念は成立していませんでした。東アジア世界には〈中国儒学〉が存在するのであって、〈東亜儒学〉があるわけではなかったのです。この認識は台湾や中国だけでもたれていたものではなく、日本の中国学者・儒学研究者も共有するものでした。当時私がここに来て知ったのは台湾の中哲研究者と日本の旧帝大の中哲研究者との強い結びつきでした。一国思想史の枠を出ようとして台湾に来た私は、旧帝国の中哲的学問世界にここで包み込まれてしまうように思いました。中国儒学・哲学の〈帝国〉的な持続的存立がまず問われなければならないと私は考えました。〈帝国〉とは民族的、国家的多様を〈中心と周縁〉という関係性をもって差異化し、秩序化していく支配の体系です。
私は台湾で開かれる学術シンポに数多く出席して、〈方法としての東亜〉を提唱しながら、〈帝国〉としてではなく、多様性が多様性として意味をもった〈東アジア世界〉の多元的再構成を主張してきました(子安『東亜儒学:批判と方法』台大出版中心、2004、参照)。それから十数年を経た今、〈東亜儒学〉が台湾で、そして中国で理念的にも、制度的にも成立しているように思われます。だがそれははたして多様性が多様性として意味をもつような多元的な東アジア儒教世界の成立を意味するものでしょうか。残念ながら私が見ているのは一元的〈帝国〉的儒学の中心ー周縁的関係性をもって差異化された東亜儒学体系として記述される東亜世界の成立です。日本儒学・朝鮮儒学・琉球儒学などなどはいま〈帝国〉的中国儒学に再包摂されているのです。
考えてみれば私が日本の儒学思想の積極的な意味づけを求めて東アジアの多元的世界としての再構成を主張していった時期は、大国中国が中華主義的〈帝国〉としての存立のあり方を強めていった時期に重なります。だから東アジアを多元的儒教世界として再構成することの私の主張が、東亜儒学世界としての〈帝国〉的再包摂を促したと人はいうかもしれません。だが私がいう多元的東アジア世界と〈帝国〉的一元的東亜世界とは決定的に違うといわなければなりません。そのことをいわねばならないのはまさしく今です。その今とは中国が〈帝国〉的存立のあり方を一層強め、香港の政治的多様性を否認しようとしている今であり、自立的多様体としての台湾がその自己主張を明確にしている今です。地域的な多様体が多様体として積極的な意味をもち、多様体としてあることを通じて東アジアを、そして世界を豊かにしていく道とは、〈帝国〉的東亜世界を形成する道とは決定的に違うと、今はっきりといわねばなりません。
日本についていえば、今日本の安倍政権はアメリカとの軍事的同盟関係を自国のいっそうの軍事化によって固めながら、日本のナショナル・アイデンティティーを強めるという対抗〈帝国〉的路線を進んでいます。これは私がいう多元的な東アジア世界への道にまったく反する独善的な一国主義的な道です。それは日本の思想と言語とを不毛にしていく道です。それは決して日本の思想を豊かにしていく道ではありません。
私は「日本思想史の成立」という形での私への問いかけにすでに答えています。
最後に関東大震災(1923)の際、日本陸軍によって虐殺された無政府主義的社会主義者大杉栄(1885−1923)の言葉を引いておきたいと思います。
「人生は決して定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一文字一文字書いてゆく、白紙の本だ。人間が生きてゆくそのことが人生なのだ。・・・労働問題は労働者にとっての人生問題だ。労働者は、労働運動というこの大きな白紙の本の中に、その運動によって、一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れていくのだ。」(大杉「社会的理想論」)
この大杉の言葉にしたがっていえば、アジア・デモクラシーというべきわれわれの運動が〈東アジア〉という大きな白紙の本の中に刻みつけていく一字一字、一行一行が「台湾思想」であり、「日本思想」ではないでしょうか。
[本稿は「台湾思想史」の成立という問題を考えるに当たって、「日本思想史の成立」ということについて語って欲しいという要望を受けて、台湾の中央研究院台湾史研究所で3月24日になされた講演の原稿である。]
子安宣邦 (大阪大学名誉教授)
※本稿は子安氏のブログからの転載です。
■子安宣邦さん 思想史家として近代日本の読み直しを進めながら、現代の諸問題についても積極的に発言している。東京、大阪、京都の市民講座で毎月、「論語」「仁斎・童子問」「歎異抄の近代」の講義をしている。近著『近代の超克とは何か』『和辻倫理学を読む』『日本人は中国をどう語ってきたか』(青土社) (子安氏のツイッターから)
■子安宣邦のブログ -思想史の仕事場からのメッセージ-
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/
■「中国問題」と私のかかわり 〜語り終えざる講演の全文〜 子安宣邦(大阪大学名誉教授 近世日本思想史)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201512072209271
■<大正>を読む 子安宣邦 和辻と「偶像の再興」−津田批判としての和辻「日本古代文化」論
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602111256064
■丸山眞男「超国家主義の論理と心理」を読む 〜丸山の「超国家主義」論は何を見逃したか〜 子安宣邦(近世日本思想史 大阪大学名誉教授)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201602112350414
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