1990年代からタイのバンコクを拠点にアジア各地で取材をしてきたジャーナリストの宇崎真さんは妻の喜代美さんとともにタイで犬を飼い始めました。名前はポチでした。犬を飼い始めたことがきっかけで、新たな取材フィールドも生まれました。以下は宇崎さんの寄稿です。
「ポチは 1992.12.24 チェンマイ生まれ。翌年の春に我が家にやってきました。死んだのは 2012.5.7でした。ポチはペットというより、完璧に家族でしたし、私にとっては師といってもいいのです。一緒に暮らすようになって、こんなにも会話が成り立ち、理解し合えるようになるのか、と。勿論そこに至るまでには数年以上の年月が必要でしたが。
「待て」ができるようになり、「じっとして」が出来、「我慢」がわかり、wait, stay, patient を理解し、やがてタイ語のそれらも理解していました。競争するにしても、よーい でスタートの態勢をとり、ドンで初めて走り始める。こうなると、こどもと一緒です。私とポチが離れて向き合い、中間地点にお菓子を置きよーい ドン で走り寄って取りっこをする、
旅の支度を始めると、トランクの上に座り込んで行かせまいとする。長い留守から帰ると、飛びついてくると思いきや「もう、知らない」と目も合わせない。機嫌をとるのに苦労する。まるで、我が家にもう一人嫁さんがいるみたいだな、と何度思ったことでしょう。ポチはメスでした。
ポチとの暮らしがはじまって、哺乳動物への興味と関心が猛烈に刺激され、この陸上で最大の哺乳動物、象に密着取材し、最小の哺乳動物であるキテイ―こうもり(学名は Kitti’s Hog Nosed bat 体重2.5g タイの西部カンチャナブリの丘陵地帯の洞窟にしか棲息していない。1973年に発見された新種) を「再発見」したりしました。日本の学者研究者に連絡し、それ以降14年余にわたる現地調査が継続されています。
象の体重は 5t を超えますから、陸上の哺乳動物は200万倍以上の体重差があるわけです。その膨大なひろがりのある哺乳類のなかで人類はただひとつに過ぎない。このことをさまざまなかたちで訴えていきたい、それをひとつのライフワークとしたい、ということなのです。
アジア象の出産映像が世界どこにもないと知って結局7か月かけてその映像の撮影にこぎつけましたが、それも哺乳動物への強烈な関心があったからでした。スタッフを動員して文字通り24時間はりついての取材、出産は207日目でした。そのウオッチングで象の出産と子育てがあまりに巧みでメリハリがあるのに驚嘆しました。世界初の出産映像ということで、タイ王室からその仔象はモロドク(宝物とか財産の意味)という名前を授かりました。そして1998年3/13 に「象の日」が制定され、私はその記念講演会の講師の一人に加えられました。
次いでキテイ―こうもりの生息地を見つけ出し (2001)世界一美しいといわれる painted bat (オレンジ色のこうもりで、羽ばたいてゆっくり飛び、pair の生態が確認できる極めて珍しい種)を三か月かけて東北タイで見つけ出しました。(2002)この 3月末には BBC が Painted bat の取材にやってきます。
ぽちは 19年+135日で旅立ちました。その前の三年間は点滴生活、最後の三か月は自力ではおしっこも出なくなり、下腹部を押さえたり、元気づけ励ましてようやく排尿になる、といった状態でした。いつ逝ってもおかしくないから、その最期は一緒にいてあげようと、夫婦で24時間介護をつづけました。
その時の介護日誌はまだ読み返すこともできません。いまでもその時を思い起すと心乱れてしまうのです。
最期は、妻の喜代美が抱きしめ私が消えゆく脈を確かめながらの出来事でした。その直前 「楽しかったね。有難う。また海に行こうね」と言ったらポチはぐったりした身体なのに、尻尾を大きく何度も振りました。
遺体となったら、じきに硬直する、と聞いていたのですが不思議と丸一日たっても柔らかいいつものポチでした。あとで医者に聞いたら 「それは死ぬとき苦しみや痛み、悩みがないときに時折あるのです」と言われ、いくらか安堵の気持ちに救われました。
私はポチにこう語りかけました。また生まれてきたら必ず一緒に暮らそうね、と。そして「今度はポチが人間でぼくがイヌになってもいいから一緒にだよ」と。それはウソ偽りのない一番正直な気持ちでした。
ポチとの生活は私の仕事の中身も思考をも変えました。それを通して哺乳動物への探求心が猛然とわきあがり、人間のどうしようもない傲慢さを悟り、自然と野生、老いと死、免疫と治癒力等など深く考える機会がふえました。まだ炊飯中のコメみたいでどんな炊き上がりになるか自分でも分からないのですが、ポチは我が人生のなかで最も大切な存在のひとつだったな、とつよく思うのです。ですから、ポチには恩がある。師でもあった、そうつくづく思いつづけています。
宇崎真 (うざき まこと ジャーナリスト) 」
■タイのバンコクで読む剣豪小説の味わい 1 バンコク在住 宇崎喜代美
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201606191530270
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