( 群馬県嬬恋村から東京・京橋の三ツ星店「シェ・イノ」でディナーを取るために妻の瞳さんと上京した原田理シェフ。今回はその続きです)
しゅわしゅわと音を立てながら、ソムリエがシャンパンをグラスに恭しく注ぐときには、何ともいえない高揚感のようなものがあります。レストランの席に付き、やっと着いたという思いと、これから始まるディナーへの高まる期待。充実した泡で喉を潤しながら、メニュ選びへと流れてゆく序曲のようなものでしょうか。
レストランの照明は明るすぎても、暗すぎても適切でなく、女性と料理が一番美しく見える明るさを維持するのが大事なところです。昼夜の明るさに合わせて光の中心がテーブルの真上に来るよう照明を調節します。昨今はインターネットレビューの為に写真を撮るケースは多いように感じますが、レストランの照明は、その瞬間に美しく見えるように設定されているのであって、写真を撮る場合の照明には適さないことが多いのです。各種レビューで美しく撮られた料理写真にとんと出会えないのは、そういった理由であるかとは思います。しかしながら、せっかくの記念にと思う向きにはフラッシュをたかずにデジタルカメラのシャッタースピードを落として撮ってみることをお勧めします。この方法だとセンスのない携帯電話のシャッター音がレストランに響き渡ることはないですし、素人が撮っても、ある程度は鑑賞に耐えるものが出来るでしょう。写真はともかく、レストランの洒落た過ごし方としては、熟練の職人が織り成す瞬間芸の数々を記憶に残すことに重点を置くほうが、後々思い出にひたり、共に食事をした人のことや、すばらしい味覚の余韻を長く楽しめるのではないかと思います。
食前酒を飲みながら、今日の食事の内容を決めるという作業は、レストランに入って最初の楽しみで、かつ、重要な作業でもあります。星付きレストランともなれば、メニュ表を見ながら、前向きに迷いながら相談して、サーヴィス係りを一定時間独占することも許されますし、また、パートナーと料理について会話がはずみ、期待値を高める時間でもあります。フランス料理が芸術たる所以はこういった、ともすればただの手間とも思える時間を、顧客に高尚な儀式を行なうときのような気持ちに錯覚させ、愉しませてしまうところなのではないかと思います。
今夜のメインデッシュは「仔羊のパイ包み マリアカラス好み」にすると決めていた妻は、迷わずそれを選ぶのですが、前述のようにレストランを余すところなく愉しむには、ここで敢えて迷ってみるのも、なかなかオツなものなのです。20分ほどかけて今日の料理を決めると、今度はワインリストがやってきます。選んだ料理に合わせてソムリエと相談しながら今日のワインを選ぶのです。これもまた、レストランならではの儀式的な楽しみと言えます。ソムリエとはワインの専門家で、ワインや飲料類の店の在庫と状態を把握し、顧客の懐具合に合わせて相談に乗ってくれる役職のこと。ここで見栄を張っても後悔をするだけです。素直に金額を指差して、このくらいで好みはこれこれ…と伝えるのがいちばん。餅は餅屋に任せるべきです。たいていは一緒に迷ってくれるはず。任せるも良し、意見を参考に自分できめてもよしです。時間をかけたとしても心配は無用。良い店は料理を提供するタイミングを調節してくれますから。
一皿目は「トリュフのラビオリ 栗のソース」。トリュフと言うものは香りがすべてです。フランスの美食家 ブリア サヴァランが官能的な香りと表現したように、他にはない独特の芳香がある食材です。トリュフの香りというのは、それにふれる回数が増えれば増えるほど、好きになっていくものです。高級かつ希少なその香りは長い時間人を惹きつけてきました。ラビオリは強いて言えば薄い生地の水餃子といったところでしょうか。薄く延ばしたパスタの間に具を挟んで茹でたものです。ソースを口に含むと、栗の甘みとそれに呼応するかのように塩が効かせてあります。前菜に些少の甘みを持ってきて、食欲をそそらせることはフランス料理ではままあるのです。
このあたりでメインディッシュに合わせての赤ワインの栓が抜かれます。特に若いワインは飲み頃を迎える時間になるのが遅くなるため、早めに栓を抜き、空気に触れる時間を増やして調節をします。ソムリエの気遣いです。
二皿目はオマール海老と野菜のテリーヌ 4種のソース 野菜と上手に火の入ったオマールが綺麗に型に詰められています。美しく、繊細な盛り付け。力強いオマールの風味。野菜の滋味といったものが爽やかなソースでまとめられ、一口の中にめくるめく風味を醸し出しています。あわせて頼んだグラスワインの強い芳香と共に口に含み、マリアージュを楽しみます。「マリアージュ」とは結婚の意味。非常に美味しい料理とワインの絶妙なマッチングのことをフランスではこう呼ぶのです。
3皿目はフォワグラのソテ、続いて魚料理と続き、そして妻が待ち望んだ「仔羊のパイ包み焼き マリアカラス好み」がやってきます。仔羊の火入れの完璧を期すのはかなり難しく、全体は均一に火が入りながらも、綺麗なピンク色を呈さなければなりません。シンプルなローストであっても油断すると生だったり、火が入りすぎたりしてしまう食材です。ましてやパイに包んで焼くとなると難易度は更に上がり、熟練の感覚が必要です。ですがこれはまさに今、生が終わったのだ、とも表現すべきな完璧な火入れです。くわえて中心のフォワグラの溶け具合、トリュフが放つ芳香。そして添えられたソースの色、味、香りの素晴らしさ。これが他に味わうことの出来ない伝統と創造の味わいなのだと思います。
たとえばレストランに行き、その料理やサーヴィスがいいものであった場合は、遠慮なくシェフに感謝の気持ちを表すことをお勧めします。何故なら料理人にとって一番の幸福は自分の作った料理で顧客が幸せな気持ちになってくれることなのですから。こんなチャンスを逃す手はないのです。
厨房で指揮を執っている料理長は僕の調理師専門学校の先輩で、このレストランで三十余年という筋金入り。学校の集まりで一度ご挨拶したことはあったものの、眼前にすると、とても緊張します。が、そこは三ツ星たる所以、気品高く偉大なレストランこそ、サーヴィスはフレンドリと言うか、顧客の懐に入り込むのが非常にうまく、安心とリラックスに導くものなのです。この体験の価値、食卓で得られる総合芸術とも言うべき幸福(口福?)には、わずかな投資であるように思います。
良いレストランは顧客を幸せな気持ちにすると同時に再びここに来るぞという決意を持たせる魅力があります。妻と会ったのは5年前。フランス料理を食べたことはほとんどないという愛妻を、まずは近所のペンションにフランス料理を食べに連れて行きました。次は軽井沢のビストロ。そして軽井沢のフランス料理へと。だんだんに慣れてきたら、東京のビストロへ。東京のビストロの雰囲気に慣れてきたら、次はパリのビストロで食事を愉しみました。パリのビストロがわかってきたら、パリの大箱ブラッスリーへ。そして今回は東京の三ツ星レストラン。偉大なレストランで妻が物怖じしなくなれば次はいよいよパリの三ツ星へ。と思ったところで愛妻は次も「シェイノ」がいいと言います。そう、三ツ星レストランへのリピートは夢へのリピートと同様なのです。体験がすべて、記憶がすべてのレストランこそ、フランス料理という総合芸術を肌で感じる場所なのです。
ディナーを食べると言うのは、その雰囲気も一緒に楽しむのが最高で、オーナーがイメージした雰囲気に身を任せて過ぎ行く時間を感じるのが良いと思います。ビストロなら明るい照明の中でわいわいと話したり、レストランであれば暗がりで囁くように会話したり、といった風です。
「フランス料理の魅力はソースにあり」と井上旭シェフの著書で読んで以来、フランス料理をフランス料理たらしめている、このソースというものを作る作業の魔力に僕は26年間取り付かれています。屋台骨となる出汁を確実にとるということ、焼いた後のフライパンやバットに残るエキスを集める作業、酒類を煮詰めて風味を強化していく過程、繊細なトリュフやハーブは最後に必ず加えること、バターやクリームは厳選して選ぶこと、肉を切った時に出る肉汁の量をイメージして塩加減を決めることなど、ソースにはフランス料理人の基本がすべて詰まっています。その偉大なシェフのソースが今目の前にあるのです。「レストランとは総合芸術だ」というシェフの言葉に感性を磨くことの大事さをうかがい知り、歩んできた道は間違いではなかったのだと確信した瞬間でした。
原田理 フランス料理シェフ ( ホテル軽井沢1130 )
※シェ・イノ (東京都中央区京橋)
http://www.chezinno.jp/index.html
■「嬬恋村のフランス料理」13 〜高級レストランへの夢〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603031409404
■「嬬恋村のフランス料理」1 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507250515326 ■「嬬恋村のフランス料理」2 思い出のキャベツ料理 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201507282121382 ■「嬬恋村のフランス料理」3 ぼくが嬬恋に来た理由 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508021120200 ■「嬬恋村のフランス料理」4 ほのぼのローストチキン 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508131026364 ■「嬬恋村のフランス料理」5 衝撃的なフォワグラ 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201508272156474 ■「嬬恋村のフランス料理」6 デザートの喜び 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509051733346 ■嬬恋村のフランス料理7 無限の可能性をもつパスタ 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509112251105 ■嬬恋村のフランス料理8 深まる秋と美味しいナス 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509202123420 ■「嬬恋村のフランス料理」9 煮込み料理で乗り越える嬬恋の長い冬 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201510212109123 ■「嬬恋村のフランス料理」10 冬のおもいで 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201511040056243 ■「嬬恋村のフランス料理」11 我らのサンドイッチ 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201511271650435 ■「嬬恋村のフランス料理」12 〜真冬のスープ〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201601222232375 ■「嬬恋村のフランス料理」13 〜高級レストランへの夢〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603031409404 ■「嬬恋村のフランス料理」14 〜高級レストランへの夢 その2〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603172259524 ■「嬬恋村のフランス料理」15 〜わが愛しのピエドポール〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201604300026316 ■「嬬恋村のフランス料理」16 〜我ら兄弟、フランス料理人〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201607061239203 ■「嬬恋村のフランス料理」17 〜会食の楽しみ〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201609142355513
■「嬬恋村のフランス料理」18 〜 魚料理のもてなし 〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201611231309133
■「嬬恋村のフランス料理」19 〜総料理長への手紙 〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201707261748033
■「嬬恋村のフランス料理」20 〜五十嵐総料理長のフランス料理、そして帆船 〜 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201707291234426
■「嬬恋村のフランス料理」21 コックコートへの思い 原田理(フランス料理シェフ)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201709121148442
|