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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2016年03月22日01時10分掲載
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本邦初演 エデン・フォン・ホルヴァート作「最後の審判の日」 東京演劇アンサンブルによる公演
エデン・フォン・ホルヴァート作「最後の審判の日」を東京演劇アンサンブルが上演していた。本邦初演だそうだ。ホルヴァートという劇作家について、一般の人にはなじみがない名前かもしれない。しかし、この戯曲が1936年に書かれた、ということから推察されるようにファシズムの時代のドイツの人間模様を浮き彫りにしていて、非常に面白い。いったいなぜ今まで上演されてこなかったのだろうか。この舞台には男女間の情念と犯罪が描かれており、まずサスペンス劇として面白く見れる舞台だからだ。
ドイツの寒村でわずか一人で駅務をこなしている駅長がいる。彼はずっと職務に忠実に生きてきた。ある夜、仕事中にやってきた村の料理屋の娘がいたずら心から駅長にキスをする。そのとき、列車が通り過ぎてしまい、駅長はこの先、スピードを下げろという信号を出しそびれてしまったことに気がつく。その後、通り過ぎた列車は衝突事故を起こして多くの死者が出てしまう。ところが、捜査が始まると駅長は過失を否定し、信号はきちんと出したと言う。しかし、二人を見ていた人物が一人いた。それは駅長の妻だった。駅長の妻は娘に悪意を抱いていた・・・
料理屋の娘、駅長の妻、料理屋の家族や婚約者、村の噂好きのおばさん、ドイツの寒村にいそうな様々な人間が出てきて、事件を巡ってあれやこれや話をし、真実を探求するというよりは時々の支配的な論調に自分を合わせ時々に、居丈高になり、雄弁になっていく。駅長は最終的に料理屋の娘のうその証言で無罪放免となるが、しかし、無罪になったことが逆に罪の意識と心の苦しみを増幅させ、第二の悲劇的な事件へと向かわせる。
演出の公家義徳氏はスペクタクルとしての面白さを引き出す演出をしており、政治的な寓話性は舞台ではあまり露わにはしていない。しかし、抑制された演出スタイルがこの戯曲のサスペンスの味わいとマッチしており、逆にその後ろにあるナチス時代の寂しくゆがんだ社会の姿を押しつけがましくなく想像させてくれる。公家氏は上演パンフレットの中で今、「夜の気配」がすると記している。劇の登場人物たちは確かに左右を問わずネットで報道や書き込みに一喜一憂し、排除したり仲間にしたり、ネット上のリンチをしたりといった行動を繰り返している現代の日本人と重なってくる。配慮や思いやりや熟慮を欠いた小さな言動の1つ1つが社会に積み重なっていく。こうした時代の中で、最後に杭となって人びとをつなぎとめるものがあるとしたら、それは何か。
本邦初演ということはつまり、今まで日本で誰も舞台で上演していない、というわけで過去の参照情報がない。今回、この時期にこの劇を掘り出して上演したことは大きな価値と言えると思う。
海外で上演されたときの資料で参照できるものにたとえば2009年のロンドン公演の記録がある。上演用にこの劇を英語に翻訳した劇作家・映画監督・脚本家のクリストファー・ハンプトン氏はビデオインタビューで戯曲を書いたホルヴァート自身にも「罪悪感」があったことを語っている。ハンプトン氏によればホルヴァートの罪悪感とは劇作家としてナチスドイツに長く身を置いてしまったことだった。ホルヴァートはナチの御用作家組合にも身を置いていたという。ナチに共感したわけではなかったかもしれないが、生きるためにそうした選択をした。最終的にドイツで上演禁止となり実質的に亡命に近い形で外国に出ていくことになるのだが、それは遅すぎたのかもしれない。
ガーディアン紙はホルヴァートの「罪悪感」を、「警告」を適切な時期に出すことができずドイツを破滅させてしまった罪悪感だったと説明している。だから、彼はこの劇でそうした信号=警告を出しそびれてしまった理由をドイツの寒村をベースに描いてみた、という解釈である。政治と言えば政治家のよしあしや政治的言説など国会議事堂の周辺に視点を限定しがちだが、政治とは身の回りの人間模様そのものでもあり、誰もその責任から逃がれることはできないという考え方だろう。
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「最後の審判の日」の看板。モスクワ出身で、ドイツのバウハウスでも活動してきたHeather Hermitによる
「最後の審判の日」のポスター
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