日本の植民地政策を書いた本を何冊か続けて読む中で、呉善花著「韓国併合への道 完全版」(文春新書)を手にすることになりました。この本にはそれまでに読んだ歴史観とは違ったテイストがありました。趙景達氏の「近代朝鮮と日本」の場合は全編、一貫した厳しい日本の植民地政策に対する批判的な視点に貫かれていますが、呉善花氏の本書の場合は日本批判だけではなく、結果的に植民地支配を招いてしまった朝鮮の為政者の問題点を描くことと、日本の植民地政策が結果的に残した成果を描いていること、この2点にあります。
呉善花氏は韓国出身の研究者の中では親日の人と日本で取り上げられているらしく、日本の右翼の論客である西尾幹二氏と対談なども行っています。その対談では呉さんは韓国から日本に留学した時に、韓国で受けてきたいわゆる「反日教育」とは違った印象を受け、そのギャップに非常に深く悩んだ、と告白していました。その対談を読んだ印象から、そこにリアリティを僕は感じたのです。
そういう若干の前知識を持って本書を読んだのですが、一読して感じたことはこの本は興味深い、ということでした。この面白さは他の歴史書では知りえなかった情報が書かれていることや、韓国の歴史教育に対する著者の視点が描かれていたことです。僕は韓国における歴史教育を直接知りえないので、呉さんの経験がどの程度、韓国全体に当てはまるのかわかりません。ただ、これまで知りえなかった1つの視点として興味深く思えたのです。といっても、呉さんは決して過去の日本の植民地支配を肯定しているわけではないとも思いました。
「日朝修好条規が結ばれた1876年(明治9)前後から1910年(明治43)の日本による韓国併合に至るまでの約35年間にわたる日韓関係の歴史については、これまでに専門書から一般書まで、日本でも韓国でもたくさんの書物が出されている。それにもかかわらず、歴史家でもない私がその間の歴史について書いてみたいと思ったのは、自分なりにどうしても究明したい問題があったからである。それは、日本に併合されるに至った「韓国側の問題点」の徹底的な究明である。韓国併合へといたる道は朝鮮近代の敗北の歴史を意味する。なぜ敗北したのか、その自らの側の要因と責任の所在を真摯に抉りだす作業が、韓国ではいまだになされていない。戦後の韓国で徹底的になされてきたことは、「日帝36年」の支配をもたらした「加害者」としての日本糾弾以外にはなかったのである。」(はじめに)
呉氏は序文で本書をどのような視点で書くかを明確に記しています。そして韓国の国定教科書の特徴を次のように集約しています。
「この章(民族の独立運動)の全編が「日帝の不法で過酷な支配と冷徹な収奪」に対する「わが民族の勇敢な抵抗と独立運動」という観点で貫かれている。この観点から身につけていく歴史認識だけが、韓国国民にとって唯一の正しい歴史認識だというのが、戦後韓国政府が共通して取ってきた立場である」
しかし、こうした姿勢に変化が生じたのは1997年の韓国通貨危機の時だったとされ、戦後初めて、韓国人自身の過去を見る風潮が芽生えたとされますが、しかし、それは本格的な思潮までには発展しなかったとも書かれています。ただ、前に読んだ文京洙著「韓国現代史」によると、2005年の頃に歴史の見直しがブームになっていると書かれていたことが思い出されます。ただ、この場合はむしろ戦後史についての記載だったようではあります。
さて、呉さんは本編の中で当時の朝鮮王室が内憂外患の状況に対処できず、欧米や日本と通商条約を結び近代化を図ろうとする改革派・開化派と、華夷秩序の中から出ようとせず儒教的国家を守ろうとする守旧派との間で内部対立が深刻化していた状況を記しています。中でも守旧派の大院君(国王=高宗の父)と、一応形的には改革派・開化派だった閔氏(高宗の妃の一族が支配する)政権の確執が朝鮮にとって不幸な事態を招いたことを記しています。特に閔妃の一族である閔氏の腐敗や一族のエゴイズムに対して呉さんは非常に厳しく論難しています。折しも江華島事件など日本が朝鮮半島に食指を伸ばしていた頃に、こうした事態で内紛と腐敗が続いていたことがつけこまれる隙を作ってしまったというのです。特に、日本、清、ロシアの間でどこと組むかについて閔氏政権の外交が場当たり的で、動揺し続けたことも見逃せない点のようです。
「日清戦争以前の李朝で、国家の本格的な近代化と独立の急務を唱えて活動した政治勢力は、金玉均をリーダーとする青年官僚を中心に組織されたグループのほかにはなかった」(独立・開花を目指した政権官僚たちの活躍)。呉氏がこう称える金玉均は日本の力を借りながら、朝鮮を近代化していく計画を持っていた青年官僚で、のちにクーデターの失敗などを起こして悲劇的な最期を遂げることになります。
開化派が弾圧され、結局、閔氏政権が日清・日露戦争で進出を深めていった日本の下で諸改革を求められ、やがては国家主権を奪われていく事態に至ります。ここで呉氏が触れていることで興味深いのは日本の植民地化に激しく反対して闘争をしていた義兵らが鎮圧されていく一方で、李容九をリーダーとする一進会が進めた「日韓合邦運動」というものが存在したというくだりです。
「李容九をリーダーとする一進会が進めた日韓合邦運動については、多くの場合「日本の傀儡団体・幽霊団体」による、まったく大衆的な支持をもたない「欺瞞的な売国行為」という評価がなされてきた。しかしながら、そういう切り捨て方は、当時の韓国の実情を正確にみつめようとするものではない。 一進会の会員数は自称100万だが、併合時の統監府の資料で約14万と報告されている。最盛時で20万から20数万はあったのではないかという推測もあるが、14万としても当時の韓国では他に比較するもののない最大の勢力だったことになる。当時の人口1300万、一握りの「親日反動分子」の動きとしてすますわけにはいかないのである。この運動をどう考えたらよいかは、韓国にとって実に大きな問題ではないのだろうか。」
「そうしたアジア情勢のなかから、アジア諸民族の連帯をもって西欧列強に対抗しようという「大アジア主義」が民間の知識人たちの間から生まれてくるのは、究めて自然なことであった。・・・彼らの大アジア主義に思想的な影響を与えたのが樽井藤吉の「大東合邦論」(1893年)だったといわれる。これは日本語ではなく漢文で書かれたもので、そのため中国や韓国の知識人にも広く読まれたという。・・・「大東合邦論」の基本的な主張は、「日本を盟主とする大東亜連盟」の結成によって、文化的・政治的・経済的に西欧列強の浸出を斥け、衰退するアジア諸国の共同の繁栄をかちとろうという理想である。「日本を盟主に」というところには、いまでは抵抗を感じる人が多いと思うが、日清日露の戦役を勝ち抜き、アジアで一人近代化を大きく進めて西欧列強に対抗する日本をリーダーとしてアジア諸国の連帯を考えていくことは、当時としてはきわめて当然のことだったとみなくてはならないだろう」
「日韓合邦運動」を進めた一進会の李容九は、しかし、1910年、実際に韓国併合が起きてみると一進会は他の諸団体とともに解散を迫られ、「日本にだまされた」と述べたと書かれています。無差別平等の理想とは程遠かった現実がそこにはあったのです。
「彼らの理想は、国家を超えていたというよりは、国家意志に対する認識の甘さを物語るものといわなくてはならない」
この本を読んでいて感じたことは呉氏は正直な人ではなかろうか、という思いです。それは僕が日本人だから、という風に受け取る人もいるかもしれませんが、それよりもナショナリストという存在が概して自国は徹底的に称え、他国は徹底的に批判する傾向があり、そこでは日本のナショナリストも、朝鮮・韓国のナショナリストも、中国のナショナリストもみなそっくりだなと思えるのです。そんな中、呉氏は自分が生まれた韓国の歴史の誤りを直視していると思いました。そのことでバッシングを受けてきた経緯もあるようですが、歴史の真実を見ようするとき、こうした視点から歴史を振り返ってみることもまた大切ではないかと思うのです。
村上良太
■趙景達著「近代朝鮮と日本」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201604030100310
■文京洙著「韓国現代史」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201603090230133
■現代韓国戯曲は面白い ドラマリーディングを見る
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