私の夫は東南アジアに深く関係して生きてきたジャーナリストである。ベトナム戦争時代からアジアを転々と移動して活動してきた夫は「一度アジアに腰を落ち着けて仕事がしたい」と思っていた。その意志を尊重して、タイ国の首都バンコク(天使の都)にやってきた。24年も昔のことだ。
私たち夫婦には子供がいなかった。「失うものがあったとしても怖くない、自分たちだけなら何とかなる、仕事に失敗しても、命までは持っていかれないだろう。まずは5年くらい行ってみようか」と。時は日本のバブル経済が崩壊した直後。夫は小なりといえど会社の役員、私は20年以上、航空会社に勤めていた。二人して後先考えず無謀にも給料生活を投げ捨て、こんなに暑い常夏の国にやってきてしまった。
祖父は東映映画会社の初代の衣装の着付け師だった。そして時代劇好きの祖母に京都で育てられた私は自然と子供の頃から時代劇に馴染んでいた。それがうって変わって職業人になってからはマッハのスピードで飛ぶ飛行機の中で働き、同じ日に別の国や違った時間帯の国にワープするような環境で生きてきた。だから余計、飛行機が到着した滞在先の国のベッドタイムに本来の自分の世界に戻るための時代小説は手離せなかった。そして、異国の地タイで暮らしだしてからは一層、望郷の念が募り、時代小説はさらに大きな位置を占めるようになっていった。
タイに住んでかれこれ二十三年、恐らく五百冊は読んでいると思う。多くの時代小説愛好家が通る道でもあるけれど、最初は藤沢周平、次いで池波正太郎、司馬遼太郎、山本周五郎の世界に入っていった。こうした泰斗とも呼べる作家のあとに次から次へとデビューしていく作家群が続いている。
今は佐伯泰英、荒崎一海、小杉健治、高田郁、上田秀人、葉室麟、門田泰明、辻堂魁、羽太雄平、佐藤雅美、宇江佐真理、宮尾登美子、六道慧、山本一力、宮城谷昌光などなど多彩な時代小説作家が輩出されている。そのおかげで私はその時代の武士社会や市井の喜怒哀楽をバンコクで満喫できている。
私がひいきにするのは、作家の誰々というよりも、むしろ作中の主人公だ。お気に入りの主人公の一人が荒崎一海の「闇を切る」に出てくる直心影流「龍尾の舞い」の鷹森真九朗。この主人公は性格がまっすぐで、どちらかというと融通が利かないタイプ。しかし人間としてとても優しく、強い心を持っている。どれだけ待ち伏せ襲撃にあうか数え切れないのに、いつも修羅場をくぐりぬけ、愛する妻のところに戻っていく。若く初々しい妻も純粋でぶれない。二人の信頼と団結は好ましく、読んでいても安心できた。
50冊以上もつづく佐伯泰英の人気シリーズ「居眠り巌音江戸双紙」もひいきにしている。主人公の坂崎巌音は穏やかな性格が剣にでて、一見強そうには見えない。彼の剣気は居眠り猫のようだ、と評され不思議な剣さばきの持ち主でもある。この小説は巌音が人間としてまだ未熟なところから始まり成長してゆく経過がよく描かれている。私自身は剣道の木刀すら持ったことはない。しかし登場人物が真剣をもって相手と対峙する場面に引き込まれ、一種の疑似体験をしているような気分になる。
タイの大都会に住み、愛犬家となってから、時代小説を通して知った「気」というものを日常に感じるようになった。以前私はポチという名のテリアとプードル、そしておそらくシーズも混じった雑種の雌犬をタイで飼っていた。タイでは、飼主のいない、だが地域共同体や寺院が面倒をみている犬(コミュニティードッグ)がものすごく多い。かれらは人間社会にうまく溶けこんで人間と共存し、人間もまた排斥しないでうまく折り合いをつけて暮らしている。でもポチと散歩に行くと、外犬のポチに対する態度は人間にするそれとは別だった。犬と犬の関係は、そこには縄張り意識があり、序列があり、体の大きさなどの力関係が存在し、嫉妬や好き嫌いがはっきり現れる。外犬の世界を毎日間近に観察していくと、犬社会は人間社会に似ていて、心も感情も人間に近いことがわかってくる。犬の持つ気はわかりやすい。小説の剣で勝負するときの呼吸みたいなものが犬社会にもあることがわかってくる。
例えば、ポチの身長は40cmくらいで私は168cm、歩いていると生垣の下に穴を掘って涼んでいる犬が私からは見えない。その犬の目の前をポチが通り過ぎると突然威嚇の大声がポチを襲ったりする。今にも噛みつきそうな敵意を示してもポチは慌てずひるみもしない。一喝するかの如く吠え返す。気と気の勝負が展開される。剣の世界では「後の先」というのだろうか。
吠えたほうの犬は大柄なのにポチの一声に尻もちをついたりもする。ポチってステキ!度胸が据わってる!どんな時も尻尾を下げないポチに時代小説の主人公の姿を見ることもある。面白いことに、そんな襲撃事件を日常的に経験していくと、私も犬同士の気というものを察知できるようになってくる。何かの気を感じて周りを見渡すと、なにか仕掛けてやろうかという目でポチを離れたところからにらんでいる犬がいたりする。
侍が眠っているとき、どこからともなく襲撃者がひたひたと家に近づいてくる。剣に秀でた人物はその殺気で目が覚めるシーンが何度も小説に出てくる。また群衆の中にいて背筋がぞっとしたりとか、姿は見えないが誰かに見られていると感じる場面が描かれる。それと同じように、攻撃しようとする犬が背後に迫る、スキを狙っている瞬間が感知できるようになってくる。そのときおじけづいたらダメ。相手はその気を読み取り、それに乗じて襲ってくる。
だが、私の気もポチの気も勝っているときは相手の犬は向かってこない。引き続き吠えたとしても文句を言っているにすぎない。こうしていつも私は背中に目をつけて、気を感じながらバンコクの住宅街スクムビット界隈の中をポチと歩いてきた。真剣に戦うときに大事な「気」「気合い」「丹田の力」などは大切なものであると小説に書いてあったのは、本当だと実感する。縄張りを守ろうとする外犬たちを悪者にしているような書き方なので、彼らの名誉のために一言。彼らの圧倒的多数はいい子たちだ。私がチャー坊と名付けていた茶犬はポチに威嚇してくる。でも私が一人で歩いていると嬉しがって飛びついてくる。本当は人懐っこいのだ。それに犬社会のテリトリーを犯して「喧嘩を売っている」のはこちらなのだ。
タイでの生活は当初はタイ語も話せず、友達もいなかった。テレビ放送も何が何だかわからないものばかり。タイ料理にもなれず、無理して日本食を作ってみても、なぜかおいしくなかった。タイのお米はインディカ米で日本のお米の味とは全然違っていた。水も味が違う。ナスも大根も人参も魚も、姿は日本のものと似ているのに、調理すると別の味がした。そういうことは目に見えない形で私のストレスになっていった。異国の地でこのような生活をする私にとっていつも心のバランスをどう維持するかが大切になった。そのひとつが時代小説を読むことだった。
宇崎喜代美 (バンコク在住 通訳・コーディネーター / 元国際線スチュワーデス)
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