異国の食材、料理にストレスがある私は、時代小説に「峠の茶店で団子や黄な粉餅を食べる」とか「江戸で最近評判のうなぎのかば焼」といった表現が出てくるとその場面を想像して頭の中はいっぱいになってしまう。そして小説に描かれた食べものをつくるための材料を日本から持ってきて、懐かしい日本食を片端から自分で作るようになった。何をどのように作るかを考えだすと眠れなくなることもしばしばなのだ。かまぼこ、さつま揚げ、栗の渋皮煮、わさび漬け、漬物、ゆず皮を刻んで入れた蕎麦、ふきのとう味噌、豆腐に納豆、特にシンプルな昔ながらの味を残した食べ物がなんとも恋しく思え自分でつくってみた。
京都から東京に出て働きだした頃も、京都料理が忘れられず自炊でこしらえては友人らに味わってもらうことが楽しみとなった。簡単に日本のいい食材が手に入らない異国の地では、なおさら時代小説の中の食べ物に憧れて、その場面を想像しながら再現料理に熱をいれる人間になっていくのだった。ひょっとしたら、日本にいる日本人よりも日本食や日本の風習を大事にいているのではないかと思ったりすることもある。毎年お正月には手作りのお節を作る。旅行などに行かず家でお節を作りお客様を迎えることが私にとってはとても幸せなことなのだ。「日本では食べられないから」と毎年日本から来る友人がいて苦笑した。でも嬉しくもあった。
時代小説にはまったきっかけは藤沢周平の「用心棒日月抄」である。藤沢さんの作品では暗い作品が多い中、「用心棒日月抄」はハードボイルド、恋、剣さばきなど満載の痛快な時代劇で、実に面白かった。この中に忘れられない食事の場面が出てくる。 主人公・青江又八郎と嗅足組(諜報部員)の頭であって、その恋人、佐知が食事をする風景である。隠密の任務を果たすために江戸に出て来たにもかかわらず、藩から経費が一切出ない又八郎は文字通り浪人暮らし、苦労の多い暮らしだ。しょっちゅう米櫃の底が見える。たまたまそういう時に佐知が町屋の娘さんの姿で長屋にやってきて、しなびかけた大根のしっぽや、野菜のくずで味噌汁を作り二人でご飯を食べる。私はこの場面が大好きだ。貧しい食事だが、二人は幸せをかみしめている。次から次へと降りかかってくる敵の襲撃と戦いの合間にほんの一瞬幸福感がかもしだされるシーンなのだ。佐知はとても女らしい人でありながら、女性の幸せをそっちのけで実は嗅足組の任務遂行をしている。その中で女性としてほのぼのとした幸せを感じる一瞬がみごとに描かれている。佐知は多くの男性読者の憧れの人物像だろうが、私から見ても知的で、ひたむき、強い心をもち美しく魅力的な女性あり、私にとっても憧れの女(ひと)なのである。
池波正太郎にしても、藤沢周平にしても、「人が生きること、それはまさに食べること」を時代小説の中で描いていた。佐伯泰英も作品の中でいっぱい食べ物を扱っている。捕り物帖では、見張りに出ている人たちに握り飯や、酒、煮しめなどを仲間が持って来たり。下っぴきたち大勢が一緒に味わう食事の場面も興味深い。「酔いどれ小籐次」シリーズでは、小籐次の本職「研ぎ」の合間に伺った家でいただく昼食は、かやくご飯あり、煮込みうどんあり、湯気がこちらにも伝わってきそうで唾が出そうだ。佐伯泰英も人がものを食べることを丁寧に大事に描いている。また酒好きの小籐次の酒の飲みっぷりも素晴らしい。時代小説ではいろんな場面に酒が出てくる。酒は粋であり文化である、と小説を読み重ねていくうちにだんだんわかってきた。日本食が今は世界遺産。日本酒も世界遺産に当然なってよいと思うのは私だけではないだろう。肴と酒を縁側に持ってきて、月を眺め虫の声を聴きながら飲む酒のシーンは芸術的な世界である。
昔は飲み物と言ったら水、お茶、酒の三つだけであった。酒が生活と食に密着して、酒の飲み方、飲む場所、飲む時も昔のほうが風情も味もありそうだ。日本は長いこと鎖国してまじりっけのない独特の文化と風習を創り出している。異国の地で、時代小説を通じて日本ならではの食や酒、精神や思考などに触れていると私は心から和む。そして日本人としてまた頑張ろうと思うのだ。
宇崎喜代美 (バンコク在住 通訳・コーディネーター / 元国際線スチュワーデス)
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