去年、アルベール・カミュの原作の映画「涙するまで、生きる」が公開されました。舞台はフランスからの独立戦争が始まったばかりの1954年のアルジェリア。この映画が今、作られた理由はイスラム世界と西欧がどう関係を築いていくか動揺している時代だからだと思われます。しかし、映画は現在ではなく、60年近い前の時代に題材をとりました。なぜ今の時代を描くのに、アルジェリア独立戦争を題材にするのでしょうか。
主人公はフランス人入植者の三代目で貧しい山村で小学校の教師をしてつましく暮らしている男です。男は教室の裏の住まいで一人暮らしており、そこにある日の午後、フランス人の憲兵がアラビア人を連れてやってきます。この男を裁判にかけるために町の役所まで届けて欲しい、と言うのです。罪状は家の何かを盗んだ男を殺したのだという。教師がこんな任務を押し付けられるのは独立戦争で近々襲撃が始まる気配があり、現地フランス人の人手が不足しているからです。教師はそのような任務を断るのですが、「命令だ」と言われてしぶしぶアラビア人の男を迎え入れます。憲兵はアラビア人を教師に引き渡して帰っていきました。映画はフランス人と罪を犯したというアラビア人の二人の旅を描きます。
原作を改めて読んでみると、憲兵が連れてきたアラビア人に茶を飲ませるくだりは、教師と憲兵の人間性の違いをうまく描写しています。
「茶といっしょに、ダリュ(教師)は椅子を一脚運んできた。しかし、バルデッシ(憲兵)はすでについそこの生徒用の机の上にふんぞりかえっていた。アラビア人は、教師と机と窓とのあいだにあるストーブに向い、教壇にぴったりついて蹲っていた。茶碗を囚人にさし出しながら、ダリュはくくられた手を見てためらった。「ほどいてもいいだろうな」「いいとも」とバルデッシが言った、「あれは護送のためなんだ」彼は立とうという顔をした。しかしダリュが床に茶碗を置いて、アラビア人のそばに膝まづいた。アラビア人はひと言も言わずに、熱っぽい目で彼のするのを眺めていた。手が自由になると、アラビア人はふくれた手首をたがいにこすり合わせた。茶碗をとり煮えかえる茶をごくごく飲んだ。」 (大久保敏彦・窪田啓作訳「追放と王国」より)
この印象は映画でも忠実に描かれていました。ダリュという教師がアラビア人に対して差別感をもっていない人間であることが描かれています。一方、憲兵は植民地支配をする側の人間を象徴しています。フランス人同士では人の好い男なのでしょうが、植民地という差別構造の中に置かれると、微細な動作の中に横柄な感じが浮き彫りにされてしまいます。
憲兵は教師に護身用の銃を渡して帰っていき、そのあと翌朝の出発まで一晩、アラビア人と教師は学校の建物で一夜を過ごさなくてはなりません。アラビア人は縄をほどかれているので、いつ襲ってくるか、あるいは逃走するか、寝床の中で教師は緊張に襲われます。むしろ、逃走してくれたら、嫌な任務から解放されるのだが、と願いますが、アラビア人の男は逃げなかったのでした。そして、翌朝、町役場に向かって二人は出発しますが、道の途中で教師のダリュはアラビア人の男にあとは自由にしてほしい、と言います。片方に役所への道があり、片方には遊牧民が暮らしている地域につながる道があります。後者の道を行けば男は自由の身になって生きていけます。この時、原作ではアラビア人が教師に何かを話そうとしますが、教師は聞こうとしませんでした。そして、二人が分かれたあと、教師が高台から振り返ってみると、アラビア人が役所への道を一人で歩いているのを見るのです。学校に一人戻ってみるとアラビア人から復讐をほのめかす言葉が黒板に書かれていました。
原作はこのように悲しい結末となっています。フランス人とアラビア人が、たとえこの教師のように平等思想の持主であっても結局はコミュニケーションできない物語で終わっています。映画はその亀裂を埋めようとしていました。アラビア人は別れ際にいったい何を教師のダリュに伝えたかったのか、そこからこの映画のシナリオ作りが始まったと考えてもよさそうです。映画ではアラビア人が自ら出頭する理由を教師が聞くように話を180度作り替えているのです。
それはアラビア人の集落同士で長年行われてきた殺し、殺されという復讐の連鎖を断ち切るために、彼は裁判所で死刑にしてもらおう、と願っていたのです。だから、もし自分が刑を受けずに逃走してしまえば一族の誰かが敵方の一族から殺されることになり、そしてまた一族の誰かが敵に復讐し・・・ということになってしまう。また、もし自分が敵方から殺されたら、自分の家族が敵方を殺さなくてはならなくなる・・・。映画はこの難問をストーリー展開に独立戦争の戦闘を盛り込むことで回避して、ハッピーエンドに作っています。これはこれで映画的なうまい結末でした。しかし、現実はそう簡単にはいきません。
部族同士の復讐の連鎖はアラビア人同士だけにおさまらず、今は西欧とイスラム世界の間で、復讐の連鎖が続いています。アルジェリア独立戦争の時に互いに行った暴力はアルジェリア国内にも、フランス国内にも暴力の影を引きずるきっかけになりました。今日、フランスで支持を広げている極右政党の国民戦線の創設者もアルジェリア独立戦争にフランスの兵士として参加しています。アルジェリア独立後にフランスでは様々な極右政党が生まれ、離合集散しましたが、今、それらの流れが国民戦線に集結しています。最近、イスラム戦士にフランス人が首を切られる事件があって非難が高まると、イスラム教徒の側から、アルジェリア独立戦争の頃の写真が拡散されてきます。それらはフランスの兵士がアルジェリア人闘士ら数人を斬首したあとの現場の記念写真と思われます。「お前たちフランス人も同じことをやってきたんだ」という文章がついています。斬首というと残虐さが際立ちますが、フランスでも長年ギロチンが使われていたし、異民族の斬首も行っていた、ということでしょう。
一度、武力行使をしてしまうと、復讐の連鎖が始まり、同じ物語が永遠に繰り返されてしまう。殺し殺されが反復すればするほど、和解が難しくなります。
「ダリュは逡巡した。太陽は今空にかなり高く、彼の額を焼きはじめていた。教師は踵を返してさっきの道を戻った。はじめは少し不安げに、それから確信をもって。低い丘に達したときには汗が流れていた。彼は全速力で登った。頂上で、息を切らして、立ちどまった。南は、岩場のひろがりが青空の下にはっきりと浮き出ていたが、東の草原の上にはすでに熱気の靄が立ち昇っていた。そして、この薄靄のなかに、ダリュは、胸を締めつけられて、牢獄への道をしずかに進むアラビア人の姿を見いだした。」
■カミュ原作の映画「涙するまで、生きる」 〜アルジェリアとフランス、日本とコリア〜
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