ゴルバチョフ大統領の通訳で知られ、ロシア語の通訳者でエッセイストでもあった米原万里氏が亡くなる少し前に書き下ろした本が集英社新書の「必笑小咄のテクニック」で2005年に出版されています。米原さんがガンで亡くなる前年で、闘病のことは知りえませんが、病床でユーモアが何らかの救いになったのでしょうか。しかし、もともとの原稿は2002年から2003年にかけて「青春と読書」(集英社)に連載されたエッセイと言うことなので、もともとは病気とは直接関係なく起稿されたのかもしれません。
本書の中で米原さんは小咄(ジョーク)の核心は「詐欺の手口にソックリ」と言っています。つまり、落ちに至るまでに、聞き手をミスリードする(誤った方向に誘導する)ことがジョークの核心である、ということになるそうです。たとえば次のようなケース。
「豪華客船が遭難し、乗組員の誘導のもと、乗客たちは救命ボートに乗り込んでいく。とある紳士が必死で立ち働くそんな乗組員に尋ねたのだった。 『すみません、喫煙者用のボートはどちらでしょうか?』」
これは米原氏が本書の中で、例題に挙げたものですが、前段で必死の非日常の状況を積み上げておいてから、落ちで日常生活の言葉をもってきて、その「落差」がジョークを生んでいると言っているものです。これなどは本当にそうしたシチュエーションになって現場で発せられた方がより、ユーモアとして価値がありそうな気もします。いずれにせよ、詐欺師もまた、同じように聞き手にある期待をさせて、紳士が何か悲壮なセリフを吐くのだろうというような、ミスリードをして騙すのだということでしょう。
この本が今、貴重だと思えるのはインターネット空間に飛び交う情報の中にはうっかりすると情報の受け手をミスリードするものが時々あることです。それは社会の中に「ある前段の文脈」があって、その前提に乗っかる形で話が届けられる、という構造なのです。今、かりにトルコのエルドアン政権が弾圧を強めている、という文脈が世界にあれば、ちょっとした情報も「その文脈に沿って」正しいと解釈しがちです。その情報に尾ひれがついて弾圧された人数が膨れ上がるような誇張があったとしても、その文脈に沿っている限り、「真実だろう」と思いたがる心理的傾向があります。 (だから、逆に言えばジョークを作るのだとしたら、その社会的文脈に沿って話の前段を作り、落ちで逆のセリフや行動を語ればよいのかもしれません)
米原さんは巻末に参考文献一覧を載せていますが、そこには角川書店から1980年代初頭に次々と出版された「ポケットジョーク」シリーズが1巻から22巻まで出ています。この角川書店のシリーズは一巻が「禁断のユーモア」と銘打たれ、二巻は「男と女」、三巻は「酔っぱらい」という風に巻によってテーマ別に編集されています。編集者は植松黎氏です。このジョーク集はそれまでに日本で出版されていた「ユーモア〇〇」といような本よりははるかに、広範かつ系統的に収集されていて、画期的なものでした。米原さんの「必笑小咄のテクニック」はその多様なジョークを分析して、普遍的な構造を抜き出し、どうすればこうしたジョークが作り出せるのか、ということを伝えていることに価値があります。そして、その核心が先述の、話の前段で相手をミスリードするテクニックにあります。
インターネットの世界にはうっかり読者が早合点してしまったり、誤った数字や記載が修正されないまま、次々と誤った情報が増殖したりすることがあり、それはあたかもジョークの前段の「積み上げ作業」に似ています。積み上げれば積み上げるほど、情報の受け手はもっと先の積みあがった情報を期待するようになってしまう傾向があるのです。それが情報に「尾ひれがつく」ということなのでしょう。筆者もうっかり乗せられたことがあります。基本的に世界中で権力を持っている人々は言葉の使い方が巧みであり、情報を操作し聞き手を誘導する技術力が高いのではないかと思われます。米原さんの小咄の分析はジョークだけでなく、情報を解釈する場合の人間の心理に対する鋭い洞察を含んでいます。
それまでジョークと言うと、面白い人が話す話、という風に想像しがちでしたが、「詐欺師」との類似性を打ち出したのは強いインパクトがありました。そこからジョークだけでなく、社会に流通する情報一般にも米原理論に沿って、視野を広げる回路が生まれたのだと思います。
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