私は1988年からイタリアで放送されている人気風刺番組の制作に9年間かかわった。ここ数日、風刺がいつになく話題になっているので、シャルリー・エブドについて、そして例の風刺画(イタリア中部アマトリーチェ近郊で起きた地震の被災者らをパスタにたとえたもの)について、母との会話形式で公に意見を述べることにした。
母「この風刺画は不快すぎるわ!」
私「確かに、この風刺画は不快な気持ちにさせる。でもなぜだか知ってる?なぜかって、それは、風刺というのはもともと不快なものだからなんだ。一番有名なイタリア人風刺作家は誰かわかる?いや、Maurizio Crozza(イタリアで現在活躍中のコメディアン)じゃなくて、ダンテDante Alighieri(13世紀から14世紀に活躍したイタリア文学最大の詩人)のこと。彼の傑作「神曲」の地獄編で、ニコラウス三世(ローマ教皇)が自分の排泄物に頭を突っ込んで丸出しのお尻を天に突き出してるのは覚えてるでしょ?ムハンマドに関してはシャルリー・エブドなんて目じゃないくらい、もっと酷いよ。お腹がえぐられて内臓が飛び出している上に、股に垂れ下がってる腸を口からも吐き出しながら、自分の血液をまき散らし、“呑み込んだもので排泄物を作る袋(腸)”にまみれている。それから、風刺の生みの親である劇作家は誰かわかる?その一人はアリストパネス(紀元前5〜4世紀)と言って、ここで彼の代表作「雲」に描かれている下品なことを全部紹介するときりがないからしないけど、本当に当時からこれでもかというくらいの不快な表現、酷いときは目に余る表現が溢れていたんだ。近親相姦、食糞(排泄物を食べること)、宗教批判、死者への冒涜、等々、その他諸々の不快な表現を含めて、とにかく何でもありだった。シャルリー・エブドの風刺画が僕たちにショックを与える度にわかることが一つある。それは彼らの風刺画が本物だということなんだ。」
母「でも、私はCrozzaは面白いと思うわ(注1)。それに比べてこの風刺画は全然面白くない。」
(注1)上記で筆者が「Crozzaは風刺作家じゃない」と言っているのに、人の話を聞かない母親らしさを演出するために、「Crozzaは面白い」と言わせている)
私「それもその通りだと思うよ。でもなぜだと思う?なぜって、Crozzaは風刺をしているわけじゃないからだよ。Crozzaがエミリア地方の訛りで“ジャガーを磨かなきゃ”と言うとき、彼はBersani(イタリアの政治家)の真似をしているだけ。それはパロディーであって、風刺ではないんだ。パロディーの目的は人を笑わせることで、それがパロディーの役割でもある。一方で、風刺は人を笑わせることもあるけど、笑わせないこともある。なぜなら、風刺の役割は、人に考えさせることにあるからなんだ。だからパロディーと風刺は全く別物。風刺の良し悪しを自分の笑いのツボにはまるかどうかで判断することは、新聞の社説をジャーナリストのお尻の形の良し悪しで判断するようなもので、全く意味のないことなんだよ。大笑いしたいときは、パロディーとか、キャバレーとか、にらめっことかダジャレのほうがいいと思うのは当然のこと。風刺はそれらとは別の世界のもので、もっと“専門的”なものなんだ。更に言えば、風刺は特殊なもの、特殊なものの中でも最も特殊なものだと言える。そのせいで、風刺画家の多くは生活が困窮してBenigniとかGrilloのように、別の仕事に移る人があとを絶たない。」
母「でも、人の死を風刺したらダメでしょう?」
私「まぁそう急かさないで。さっき風刺は本質的に不快なものであることを説明したよね。風刺は見た瞬間に大きな反響を誘うものでなければならない。ショックを与え、嫌悪感を覚えさせるものでなければならない。では、どうやってその目標を達成するかというと、まずは、出来事や話題ごとに神聖だと思われている物や人物を選んで風刺の中心にするんだ。(神聖なものというのはそのもの自体が反響を呼ぶとは限らない)そうして選ばれたイメージやシンボルは風刺にとって社会を反映するものになる。もし社会が聖職者を崇めているとすれば、ダンテのように風刺はその頂点にいる教皇を描く。預言者のイメージが神聖なものだとすれば、風刺はそれを利用する。ただ、神聖なものがあまり大きな意味を持たなくなった僕たちの社会(西欧)では、人の死や不幸な事故を風刺することが多くなってしまうんだよ。とはいえ、さっきも言ったように単なる描写は風刺の目的ではないから、雲の上で地上に向かって“いい加減にしろ!天国の乙女とのセックスはもう止めだ!”と言っているムハンマドが描かれているとしても、風刺の対象はムハンマドでもイスラム教でもなく、テロリストやテロリストの馬鹿げたイデオロギーだったりする。同様に、イラクで戦死した人や地震の犠牲者が風刺に描かれているからと言って・・・」
母「そうそう、子供よ、子供!去年、可哀そうな子供を題材にしてたじゃない。」
私「そのとおり。海岸に打ち上げられたシリア人の子供の遺体が描かれた風刺画だったね。今日、友達と熱心にその話をしていたみたいだけど、みんな、あの画の中で子供以外に描かれていたものを忘れちゃったようだね。あの画には、マクドナルドのドナルドがハッピーセットの宣伝をしている看板が描かれていた。あの風刺画は、神聖なもの(この場合は子供の遺体)を利用することで人々を不快にさせる一枚の画の中で、地上の楽園に何としてでも辿り着こうとしながら命を落とすという、難民たちの矛盾した状況を指摘してるんだ。しかも、その“地上の楽園”は、ファーストフード店やショッピングモールに溢れ、壊れた夢や不況に喘ぐ、ブレーキの利かなくなった消費社会でしかない、現在の西欧のこと。ここでは子供の生活もハッピーセットのように経済の一部でしかないよね。この画が良く描けているかどうかは別の話で、重要なのは、この画の目的が子供の死を笑うために描かれたものではなくて、考えさせることにあると理解すること。あのシリア人の子供と同じように、僕たちの生き地獄のような西洋社会をまるで天国のように捉えている何十、何百万人という人々が置かれた現状を、不愉快で息の詰まりそうな居たたまれなさを誘うことで考えさせようとしているんだ。もう一度言う。笑わせるのではなくて考えさせる。なぜならこれは風刺画だから。こうやって見ていくと、どうだろう、この風刺画を載せたシャルリー・エブドと、腹黒いジャーナリストたちが閲覧数や購読数稼ぎのためにあの写真を載せまくった他紙と、どっちが酷いと思う?
フェリックスの風刺画も同じ要領で、がれきの下敷きになった人たちを笑うものでは決してないんだ。あの風刺画は実際のイメージを使って私たちに考えさせようとしている。しつこいけど、もう一度言う。笑うのではなく考える。これはもう、死ぬまで言い続けなければならないかもしれない。何を考えさせるかというと、マグニチュード6,2の地震でイタリアほどの犠牲者を出す先進国は他にないということ。イタリア以外の先進国ではあり得ない話だよ。あれだけの犠牲者を出したのは一にも二にもイタリア人気質が原因で、それを描写するのにイタリア料理ほど適した表現はない。作家のフライアーノが言ったように、イタリアはあらゆることに熱心なのに真面目に取り合うことは一つもなかったりする。特に地震の被害に対する予防措置はこれまでまともにやってこなかった。僕たちイタリア人は、建物の耐震補強のように一刻も早く手を打たないとならないことを要求する代わりに、月収に80ユーロ上乗せするとか、子供が生まれたら1000ユーロの出産祝い金を支給するとか言われたときだけ張り切って投票所に足を運ぶ。今も仮設住宅で生活する2,30年前の地震の被災者がテレビに映し出されると、怒りを覚えるのではなくチャンネルを変える。今回のような災害があると全国から応援に駆け付けるのに、状況が落ち着くと同時に何事もなかったかのように元の生活に戻る。そして首をすくませて“なんだって、これがイタリアだ!”などとほざく。何も見えず、何も知らないような振りをして、実はみんな汚職やマフィアや耐震補強の怠りが原因だとわかっている、そのことをシャルリー・エブドは言おうとしたんだ。犠牲者は地震で亡くなったのではなく、イタリアが死に追いやったということを。」
母「そんなことどうでもいいわ!とにかく、こういう風刺画は法律で禁止するべきよ。」
私「そうだね。そう思うのは間違っていないし、素直な意見だと思う。風刺は社会が神聖だとするものや人に触れるために人々の顰蹙(ひんしゅく)を買って、社会から駄目だしされ、自粛を要請されるのが当然になっている。ダンテもアリストパネスも社会から追放されそうになったことがあるしね。でも、自粛を求める風潮は、風刺作家にとってバイアグラのようなものかもしれない。風刺作家は、カメラを意識した政治家の作り笑いを真似るCrozzaを見て白けることはあっても、自粛を要請されてやる気をなくしたりはしない。2015年1月7日を振り返ってみてもわかるように、自粛の要請はある意味、風刺作家の目標の一つであって、みんな死ぬ覚悟でやってるからね。そして、社会における風刺の役割はそこにある。風刺は、表現の自由を物差しで測る役割を担っている。他の社会と比較したときに僕たちが誇りに思うことができる表現の自由だよ。表現の自由を測れるのは風刺しかないんだ。世論のほとんどが一つのイデオロギーに傾倒していて神聖なものに従順な社会の自由度はどうやって測れるだろう?神聖なものや人に物申すことで、風刺は日々、民主主義の価値を確認するという、ある意味虚しい役割を担っている。何が虚しいかって、風刺の役割がクレームや解雇、最近ならテロによって評価されること。“私はあなたの意見に反対だ。だがあなたがそれを主張する権利を私は命に懸けて守る。”というようなことをヴォルテールは言ったけど、まさに風刺がその言葉を象徴していると言える。風刺は、開放的な社会と閉鎖的な社会のどちらに価値があるかを僕たちに自問させたり、フェイスブックで誰と友達をやめるか(!)を決めるときの目安になることで常に社会と向き合っているんだ。社会が風刺による不快感に耐えるとき、その社会は自由な社会だと言える。一年半前、僕たちはそういう理由で“Je suis Charlie”と言い合った。みんながみんな突然あの廃刊寸前の週刊紙のファンになったというわけではなく、あの週刊紙があるお陰で自由を主張することができるということだったんだ。いつまで続けられるかって?それはわからないな。」
文:Francesco Mazza (イタリアの映画人) ※筆者であるMazza氏の了解を得てここに翻訳・転載した
https://charliehebdo.fr/les-nouvelles-de-charlie/la-caricature-de-charlie-hebdo-expliquee-a-ma-mere/
翻訳 Ryoka (在仏ブロガー)
▲イタリアの報道の自由と政治の圧力について、未来について、独裁について Francesco Mazza(イタリアの映画監督)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201610220207266
■シャルリー・エブドはなぜイタリア人被災者をラザニアに例えたのか 〜 風刺漫画について〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201610161954160
■シャルリー・エブドのシリア難民を扱った風刺画について 〜批判に対する作者RISSの反論〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201510021439525 ■不可解な風刺画掲載本
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201503112107253 ■シャルリー・エブドは難民を馬鹿にしているのではない
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201509161922143 ■拝啓 宮崎駿 様 〜風刺画について〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201503102218542
■「日本 川内原発が3・11のトラウマを呼び覚ます」 社会学者 セシル・浅沼=ブリス Cecile Asanuma-Brice (翻訳・紹介Ryoka)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201604221513295 ■フランスの原子炉相次いで停止、電力不足の懸念も Ryoka (フランス在住の日本人ブロガー)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201610200750554
|