フランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)が亡くなったのは1980年4月15日。サルトルの哲学は実存主義と呼ばれ、戦後の1つの時代を主導し、日本でも多くの人がサルトルを語っていた時代がありました。人間存在の核心には虚無があり、だからこそ人間は自由なのだ、その自由に自己を賭けていくことで人間は自己を実現し、歴史を進歩させることができる、というのがサルトルの考え方でした。
しかし、構造主義という哲学がフランスで始まると、サルトルの哲学は批判され、死後にはほとんど言及されることもなくなりました。人間は言語や環境など様々な価値観や無意識に生まれながらにして囚われているから自由ではない、というのが彼らの批判でした。そして歴史はサルトルが言っているような形で進歩していきはしない、と言いました。
サルトル評価の分水嶺は1980年のサルトルの死でしょう。サルトルが晩年にはソビエトの社会主義に傾斜したことも、ソ連崩壊とともにサルトルの忘却へとつながる原因となりました。サルトルは1980年代の10年間にマスメディアからほとんどその姿を消してしまったのです。高校生だった筆者がサルトルの死後間もないころ、古書店でサルトルの「存在と無」や「実存主義とは何か」などを手にしたとき、それらのシリーズは新品同然だったにも拘わらず、すべて300円均一でした。つまり、もう過去の遺物としての評価だったのです。
1980年4月のサルトルの葬儀の模様を語る当時のニュースの映像があります。5万人を超える市民が追悼に集まっています。APのものやinaのものなどいくつか記録が残っていますが、カメラをパンしても立錐の余地がないほど多くの人々が集まっています。まるでロックスターか人気俳優の葬儀のようです。
https://www.youtube.com/watch?v=Fe91KVvGG2I サルトルは文学者としては一流だったが、哲学者としては三流だった、という評価がのちに定着してしまいました。しかし、サルトルの葬儀の映像を見ると、それだけではない何か、痛切なものを感じます。サルトルの哲学は構造主義に比べると素朴なものだったのかもしれませんが、サルトルがアルジェリアの独立や男女の平等などのために自己の「自由」に賭けて哲学者として行動し、実際に人々の意識を変え、社会を動かしたからだと思います。サルトルは男女の自由な関係を尊重するとして終生結婚することはありませんでした。また新聞の編集長として政府を批判し、警察に逮捕されたこともありました。さらには一切の権威を拒否する、という理由でノーベル賞も拒否してしまいました。ノーベル賞を受賞したカミュとの違いでもあります。欧州の一自由人の歴史を、参列した市民一人一人が共有していたのだと思います。
村上良太
■「レ・タン・モデルヌ誌」(Les Temps Modernes) サルトル、ボ―ヴォワール、メルロー・ポンティらが創刊 今も時代のテーマを取り上げる パトリス・マニグリエ(Patrice Maniglier パリ大学准教授・哲学者)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201606241454415 ■パリの「立ち上がる夜」 フランス現代哲学と政治の関係を参加しているパリ大学准教授(哲学)に聞く Patrice Maniglier
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201605292331240
■作家キャロル・ザルバーグと猫 猫は不眠の長い夜の優しい仲間 Carole Zalberg et un chat
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201610070746515
■ナチスの徹底した偽装工作に医師はだまされた 「生者が通る」(Un vivant qui passe ) クロード・ランズマンのインタビューから
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201608180109584
|