世界システム論というのは学生だった80年代に講義を多少受けた記憶があり、テキストはカール・ポランニーの「大転換」という本でした。それはそれで面白かったのですが、不勉強もあって世界システム論の全貌はよくわからないまま卒業してしまって今日に至っています。
偶然、最近用事があって吉祥寺を訪ねた時に駅前の古書店の棚にこの本「史的システムとしての資本主義」がありました。手に取って見たら、どうしても読みたくなって買ってしまいました。世界システム論の大家がウォーラーステインです。なんとなく今までもやもやしていたものがはっきりするのでしょうか。なぜ今、本書の実像が未知数であるにしても読みたくなったのか、というと資本主義をどうとらえるか、とりわけ今のグローバル資本主義をどう考えたらよいのか、この先の世界はどうなると考えればよいのか、そうした疑問が自分の中で大きく膨らんでいたからでしょう。ソ連崩壊後には共産主義とか社会主義といったかつては輝いていたイデオロギーも地に落ちてしまったかの印象があります。
グローバル資本主義は先進工業世界の国々に中流層の没落と所得の格差をもたらし、アメリカで顕著なように一握りの大富豪が世界人口の半分近い富を握っている時代に現在、至っています。これはグローバル資本主義がもたらした負の結果だと思います。しかし、その一方で巷にはグローバル資本主義を前向きにとらえる人々も少なくありません。グローバル資本主義によって貧しかった辺境地域にも工業化の波が押し寄せ、工場労働に従事することで賃金収入を得られるようになり、教育水準が上がり、世界は標準化され、ハッピーになる・・・・というバラ色の未来像です。そうした人から見れば現在の格差問題は単なる「移行期」に生じたやむを得ない局面ということになるようです。彼らの説明では差が開いたとしても貧乏人も豊かさの恩恵に多少なりとも預かり豊かになっているからいいではないかというわけです。しかし、グローバル資本主義は本当に人類全体を幸せにする「神の見えざる手」のような必然なのだろうか・・・。世界各地に様々な問題が押し寄せている今、年の瀬に本書を抱えて帰りました。
ウォーラーステインは本書の中で資本主義は資本の自己増殖を原理とする特殊歴史的なシステムであると定義しています。
「史的システムとしての資本主義と呼んでいる歴史的社会システムの特徴は、この史的システムにおいては、資本がきわめて特異な方法で用いられる〜つまり、投資される〜という点にある。すなわち、そこでは、資本は自己増殖を第一の目的ないし、意図として使用される。このシステムにあっては、過去の蓄積は、それそのもの自体のいっそうの蓄積のために用いられる限りにおいて、「資本」となったのである。」
余剰物の蓄積自体は古代からあったのです。しかし、それを資本とはここでは呼ばず、ここでは資本の自己増殖を究極の目的として投資が行われることをもって資本主義、つまり「史的システムとしての資本主義」であると定義しています。わかりやすく言うなら、金(資本)は金を増やすために使う、ということです。他のいかなる目的よりも、投資家の金儲けが第一の目的となっているシステムです。そして労賃が安い国や地域に資本投下するほどより多くの利潤を増やしていけるために、資本主義は世紀を超えて世界中に広がっていきました。
この「史的システムとしての資本主義」は15世紀末の欧州で始まり、それが諸矛盾を拡大する結果、今世紀中に破綻するとウォーラーステインは予言しています。この予言自体はソ連崩壊後に出したものです。ウォーラーステインは過去の共産主義は進歩思想に囚われてしまったために資本主義を肯定する結果となり、その結果、自ら資本主義を越えることができないという逆説を生み出したと言っています。彼はマルクス主義の基底にあった進歩史観を<それは誤った普遍主義であり、アヘンである>と否定しており、次の世界システムがどうなるかはわからないと正直に告白しています。
資本主義を越えよう、という論者の声をこれまで時に耳にしてきましたが、資本主義を廃棄したあとにどうなるのか、またソ連のような世界になるのか?などと今一つ、そうした世界にリアリティを感じることができませんでした。しかし、今、一握りの大富豪が世界中の富を独占するような事態が進行しているのを報道で見せられると、逆に資本主義は危機に瀕しているということを直感的に感じます。そしてそうであればあるほど、テロ対策とか、共謀罪みたいな社会変革に対する予防措置が取られようとしているように思われてきます。
本書の中で最も注目させられたことは、かつてのマルクス主義では資本主義の進展によって労働者階級がプロレタリアート化されていく(そして、プロレタリアートが世界を変革する)とされていましたが、ウォーラ―ステインはそれは違う、と言っていることです。
「労働力のプロレタリア化の過程が、生産者にとっていかに有利であったかについては、すでにうんざりするほどの研究がある。驚くべきは、いかにプロレタリア化が進行したかではなくて、いかにそれが進行しなかったか、ということなのだ・・・この歴史的社会システムにはつとに400年を越える歴史があるにもかかわらず、完全にプロレタリア化された労働力というのは、今日の『資本主義的世界経済』においても、なお50パーセントにも達しているとは到底いえないからである」
ウォーラ―ステインによると、資本家にとってはプロレタリア化した労働者はむしろ、労賃の引き上げや労働環境改善を求めるデモを行ったり、社会保険の充実を求めたりして、かえって高くつく、と言っています。したがって資本家にとって、最もよい労働者は半プロレタリアートとも言うべき人々で、工場労働の賃金で生活全部を賄う必要がない人々である、と言っています。そうした人々は生活の半分は自宅でとれる野菜や肉や魚に依存しているがゆえに、完全なプロレタリアート労働者よりも賃金をさらに安くおさえることができるからである、と。女性や未成年者、熟年者などを労働者全体に組み込んでみると、プロレタリア化率は高くないと言っているのです。
最近は非正規雇用が増えていますが、非正規労働者の中には親と同居していて独立して生計を立てることができない人もいると思います。あるいは自分一人はなんとか食えても家族を持つほどの収入が見込めない人もいます。ここで言及されている「プロレタリアート」は賃金が低くても一応は家庭を持って次世代を育むことを前提にした概念のようであり、家族をもたず単身でなんとか食いつないでいるような非正規労働者は半プロレタリアートということになるのではないでしょうか。いや、ウォーラーステインは本書の中でそこまで言及していないのですが、孤立した半労働者の拡大という意味でそうなのかな、と思ってしまっただけです。現代の日本は30年前と違って伝統的な農村の集落はほとんど崩壊に瀕しているのです。いずれにしてもウォーラ―ステインの見解を読むと、まさに今日の日本は究極の資本主義に向かって進んでいるという印象を持ちました。
これらは本書を読んで、その内容を筆者の印象深さにそって拾ってみたものです。世界システム論をどう評価すればよいのか、未だ筆者にはそこまで述べる知識がありません。しかし、ソ連崩壊後にもう一度、世界全体のことを考えてみる時に刺激的な一冊であることは間違いないと思いました。
■Immanuel Wallerstein on the end of Capitalism
https://www.youtube.com/watch?v=nLvszWBf6BQ
■"China and the World System since 1945" by Immanuel Wallerstein
https://www.youtube.com/watch?v=uQV0w11vVO8
■Immanuel Wallerstein - Dilemmas of the Global Left (Lecture)
https://www.youtube.com/watch?v=rTG5TQSZ1FY
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