2016年4月20日、関西電力の技術畑の課長、40代のAさんが出張先の東京のホテルで自殺を遂げた。どの方面からの申請だったのかわからないが、この事件について敦賀労働基準監督署はおよそ半年後、これを過労自殺と労災認定している。Aさんの死がマスメディアに報道されるのは、この労災認定後のことである。
Aさんは関電高浜原発1,2号機の再稼働に関する原子力規制委員会の審査対応の業務に携わっていた。この審査は3項の流れからなる。
a、2015年3月17日申請の「新規制基準にかかる審査」⇒16年4月20日に「合格」
b、15年7月3日申請の「工事計画の審査」⇒16年6月10日に「認可」
c、15年4月30日申請の「老朽原発に特化した審査」⇒16年6月20日に「認可」
すべての審査期限は16年7月7日である。この期限までに合格・認可が果たされなければ、とくに審査のきびしい40年以上の老朽原発1,2号機は、廃炉の可能性がきわめて高かった。
1,2号機の再稼働は関電の「社運に関わる」悲願であった。それゆえ規制委員会との折衝にあたる担当者には、なんとしても期限までに認可をとれという、本店・事業本部からのきわめてつよいプレッシャーがかかっていたことは想像に難くない。Aさんの仕事の細部については総じて具体的な情報が伏せられていて、なおわからないことも多いけれど、工事関係の課長であるAさんは、主として上のb、設備の詳細設計をまとめる工事計画認可申請を担当していた。規制委員会に提出した資料はあわせて数万ページ(読売新聞2016.10.21によれば8万7000ページともいう)におよび、しかも提出するたびに規制委から膨大な質問や手直しの要請が出される。コピーなどの補助作業には事務担当者が配置されているとはいえ、技術に関わる処理は結局、専門知識のあるAさんに集中していた。社内の調整の会議も数多く、Aさん一人のことではないにせよ、15年3月の安全審査申請から16年6月の認可まで事務レベルの会合は233回に及んだという。16年1月から4月まででも100回を超えた。Aさんは3月から東京に出張して資料作成や規制委員会との折衝に携わったが、むろん東京と大阪、福井との行き来も頻繁であった。
過酷な業務である。労働時間はとくに16年1月から急増した。推定するところ2月の残業は約200時間、3月〜4月の残業は約100時間前後になる。当然「もちかえり残業」も普通であった。ここにさらに2つの事情が重なる。課長のAさんは管理職とみなされ、三六協定は適用されない。そのうえ、厚労省労働基準局長は2013年、原発再稼働に向けた審査対応業務にかぎっては労基法上の残業時間制限の適用を外すという通達を発していた。これは2013年時点の九州電力の求めに応じ九電の原発再稼働審査対応に適用されるものだったが、いつしか「ほかにもあてはまる」として他社をふくむ14基についてもOKとされていたのである。
Aさんが自死したのは、「新規制基準にかかる審査」に「合格」したその日、16年4月20日である。労災と認定されたのはあまりにも当然であろう。 そして彼の死後1ヶ月の5月末、関電は工事計画の補正書類を規制委に提出し、6月20日、再稼働・老朽原発の運転延長の認可を受けている。1号機は34年11月まで、2号機は35年11月までの稼働認可であった。
この過労自殺について注目すべきことは、関西電力という企業が徹底して具体的な説明を拒んできたことであろう。労災認定以前からこの事件に関心を寄せてきた福井新聞の最初のまとまった記事(2016.10.20)などによれば、関電はAさんの自殺について「ご遺族やご家族への影響などを考慮し、回答を差し控え」た。また岩根茂樹社長は、10月28日の決算会見で、この件については(Aさんの業務に)忙しいという状況があったのは事実だが、「遺族に配慮し、(労災の被害者が)当社社員であるかどうかもふくめて(以前から)回答を控えている」と「説明」した。そして、当時の職場環境に関しては、他部署からの応援や産業医による指導など「状況に応じて適宜適切な対策を踏まえ、持続可能な環境をつくってきたつもりだ・・・」と無意味な弁解をつけくわえる。Aさんの忙しさはわかっていながら「遺族に配慮し」「社員であるかどうかもふくめて回答を控えている」だって? それはほとんど了解を超える、滑稽で混乱した「説明」である。
審査の過密スケジュールに一半の責任ある原子力規制委員会はといえば、この件について「詳細な事実関係を把握していない」。規制委員会の問い合わせに関電が「社内のことなので何も答えない」と開き直ったからだ。その後も、関電広報室は朝日新聞の記者の質問に答えて、(Aさんの自殺については)「プライヴァシーの問題もあるので回答を控えている」という。Aさん個人の労働体験、遺族の方々のありようなど、この事件では周辺の事情はいっさい明らかにならないけれど、遺族は、労災補償があれば、Aさんが関電社員だったことも、過重労働の果ての死だったこともすべて忘れ去られることを本当に望んでいるのだろうか? 「プライヴァシーを尊重」して、というのはときに、重い責任を逃れ、社会化すべき問題を隠蔽しようとする者の言いぐさにほかならない。
関電は地域社会でも、少なくとも暗黙の箝口令を敷いているかにみえる。『しんぶん赤旗』の記者が、関電の従業員約500人が自宅や社宅を構えて住むという福井県最西端の高浜町を尋ね、インタビューを試みている。たとえ『しんぶん赤旗』でなくても同じであろう−−平均的な反応は、Aさんの過労自殺について、「この件は話せない」であった。しかし人によっては「みんなはよから(4月20日の死の頃から)知っている。黙っているのは関電の夫や子の昇進に影響するから、誰が話をしていたかは会社に伝わる・・・」と語気を荒げたりもする。また、関電は、これまでは全社員が社内ウェブサイトで在職死亡を閲覧できたけれど、いまは役職者や一部管理職のサイトでしかこれを見られないという。「これまでは葬儀も一緒で職場の大勢で手伝いました。それがいま、自殺した人は社員であるかも明らかにしなくなった」とつぶやく労働者もいた。
従業員はもとより、原発再稼働に生活を託す住民も数多いであろうこの町の、これが自然な空気であろう。Aさんの死はこうして、やがて語られることもなく埋もれてゆくのだろうか。
関電の若狭地域の原発に関しては、福井地裁(樋口英明裁判長)が、大飯原発3,4号機について1014年5月に、さらに高浜3,4号機について2015年4月に、いずれも再稼働差し止め禁止の判決を下している。これらの画期的な司法判断は、一部「識者」の批判はまぬかれなかったとはいえ、福島の事故に衝撃を受けた広範な人びとから熱い支持が寄せられた。いずれにせよ原発再稼働は、意見の対立を避けられない深刻な問題である。そんななか「社運をかけて」再稼働に突き進む関電は、原子力規制委員会の審査対応の激務に斃れた社員の過労自殺が、この経営選択にとってわずかでもマイナスになりかねないと案じ、事件の隠蔽をはかったということができる。
Aさんの過労自殺が労災認定された同じ2016年10月、電通の女性社員、24歳の高橋まつりさんの、前年12月クリスマスの日の自死が労災認定されている。この過労自殺には遺族の母と弁護士がはじめから主体的に関わっており、労災認定も記者会見で明らかにされたものであった。その告発の主体性、91年に続いてまた過労自殺を出した電通の過酷な働かせかたへの社会的批判、それにおそらくは安倍政権が「働き方改革」の真摯さの証拠を示そうとするポーズが相まって、その後の政府の対応は電通にきびしく、またスピーディであった。電通は労働局の立ち入り調査、責任者の刑事告発、社長の引責辞任に追い込まれた。さらに電通は17年1月には、遺族への謝罪と慰謝料などの支払いのほか「再発防止措置」をふくむ合意書を、遺族・弁護士側と交わすことを余儀なくされている。その「措置」には、きわめて具体的な「長時間労働・深夜労働の改革」、「健康管理体制の強化」、「社員教育・啓発」が盛りこまれた。再発防止措置の実施状況について会社は毎年12月に遺族側に報告しなければならない。労働時間などに関する労務管理に遺族側が関与する、それは異例の画期的な対策であった。
このような政治と社会の動向は、隠蔽体質の関電にもさすがにある影響を及ぼしたかにみえる。2017年1月15日、福井労働局敦賀労働基準監督署は、関電の岩根社長を出頭させ、すべての管理職の労働時間を適切に把握するよう求める指導票を交付した。これも異例のこととされる。関電は今や過去2年間の全管理者の残業時間や持ち帰り残業時間を調べ、労基署に報告しなければならない。労基署にはAさんについて持ち帰り残業の時間は把握できなかったことへの反省があったものと推測される。
これを受けて関電は1月17日、「働き方改革・健康経営委員会」なるものを立ち上げる。「適正な労働時間の管理に努め、会社と従業員のさらなる成長につなげる取り組み」をするという。関電は、16年12月20日に天満労基署から本店の従業員6人への残業割増賃金未払いの是正勧告を受けていたことも明らかにした。17年1月20日には、上の委員会の初会合が開かれた。委員長は岩根社長である。労働時間の適正な把握と長時間労働の削減を幹部に指示した。1月中に再発防止策をつくり、労基署に報告するという。
電通と違ってこの委員会は非公開であった。会社の内外で社員の過労自殺を社会問題化しないという関電の隠蔽体質はそのままである。情報は乏しく、Aさんの過労自殺を語るこの文章の内容も報道のかぎりを超えていない。だが、過労死防止にとって大きな成果を残した高橋まつりさんの受難にくらべて、原発再稼働への審査対応という社会的な意味をもつ仕事に斃れた中年男性Aさんの自死はあまりにひっそりとしすぎている。もっと多くを知りたいという思いに駆られる−−たとえば、Aさんはどのような経歴と人柄だったのか? Aさんの自死は「工事計画」の「認可」以前のことであるが、彼が主に担当していたという規制委への対応業務はどの程度終わっていたのか? これからが本番だったのか? その仕事での最大の心労はなんだったのか? 沈黙する遺族たちは本当のところAさんの死を、そして関電の対応をどのように受け止めているのか? そして技術者としてのAさんが、そもそも高浜原発1,2号機の再稼働という経営政策にある疑問をもつことはなかったのだろうか?
過剰な推測は避けたいけれども、Aさんはおそらく、原発再稼働の社会的な当否を問うゆとりもなく、多分エリート技術者の矜持をもって、会社と社員の期待を背負う困難な激務と格闘し、その途上、あまりの心身の疲弊に斃れたのだ。哀悼の思いを表したい。 (2017年2月16日)
【資料とした報道一覧】 ・福井新聞2016.10.20/10.21/10.29/11.3/2017.1.16/1.18/1.21 ・朝日新聞2016.10.8/10.14/10.15/10.19/10.20/10.26/10.27-28/11.7/11.8/ 12.25/12.28 /2017.1.16/1.30 ・読売新聞2016.10.21 ・しんぶん赤旗2016.10.22/11.20 *関電関係は福井新聞、電通関係は朝日新聞を主資料としている。
熊沢誠(甲南大学名誉教授 労使関係論)
※熊沢氏のホームページからの転載です
http://kumazawa.main.jp/
■『わたしを離さないで』 ──限られた生の証をいとおしむ 熊沢誠(甲南大学名誉教授 労使関係論)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201701131931515 ■映画 『母と暮らせば』 (2015) のものたりなさ──山田洋次が見失ったもの 熊沢誠(甲南大学名誉教授 労使関係論)
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