国民には今後は選挙権はいらないでしょう、と若者が言ったのを聞いて衝撃を受けたことがありました。選挙権を持っていても政治家を選ぶ見識がない人々が圧倒的に増えてくると、衆愚政治の危機に陥るため、一定の見識を持つ人だけを選抜して、その人々による間接選挙にするべきだ、というのです。実際、今の日本では投票率も低く、また与党議員に見られるように憲法すら理解していないと思われる国会議員も少なくありません。このような国家になったのは国民が政治家を選ぶ力がないから、というのが彼の意見でした。そして、アメリカでもそのような考え方が少しずつ増えているのだそうです。去年の米大統領選を思い返せば、その発言にもリアリティがあります。
とはいえ、このような考え方は一歩間違えると、昔の身分制社会への第一歩となりえるもので筆者には容認することはできません。すでに国会では議論をなるだけ避けて、数の力で強行採決すればいいんだ、というやり方が主になってきています。選挙でも重要なイシューは争点にしないし、報道陣もそれに触れないようになっています。このことは国民大衆をできるだけ政治判断の場から遠ざける、という意味で貴族性社会と同質のものを含んでいると思います。与党政治家の行動を私なりに翻訳すれば「国民は政治に疎いので、政治のプロだけで政治を決めるのが国民のためでもある」、ということになります。そういう信念を持っているからでしょう、強行採決しても選挙で真の争点を隠してもなんら恥じるところはありません。
政治家を見れば首相も副首相も政治家一家の三世であり、他にも二世議員、三世議員は多数に上ります。これは大学教授やジャーナリストでも一定の割合に上るのではないでしょうか。そして、家族によって職種が固定化されていき、年収も固定化されていけば、実質的な身分制社会が出来上がります。大学の学費が国立大学でもうなぎのぼりに高騰しているのは明らかに身分制社会へ移行する意思を持つ政治の反映に他なりません。また司法試験に合格するためには過去とは比較にならないほど学費を必要とするようになりました。学費の高騰は貧困問題にとどまらず21世紀の新しい身分制社会への入り口と見ることもできるはずです。江戸時代までは日本もれっきとした身分制社会であり、義務教育はありませんでした。身分の低いものは身分に応じた分相応の生活をして、上の者たちに決して逆らわず従順であることがよいのだ、という道徳も身分制社会には濃厚にありました。
今日でも正社員と派遣社員というように一代限りとはいえ、すでに身分制度が出来上がっており、その収入の多寡は次世代の身分に影響せざるをえないでしょう。そして、その行き着く先にはなにがあるか、と言えば納税できない国民は選挙権を剥奪されるのではないか、という可能性です。これは納税の義務を果たせなければ選挙権も行使出来ない、という義務と権利をセットで認識させる教育によって合理化されるはずです。実際、昔の貴族制社会というのは平民は政治に参加できなかった社会であり、その理由として一定の所得と教育を持つ人でなければ政治を正しく行うことができない、という考えがありました。もし1年に50万円以上の所得税を納めた人でなければ選挙権が持てない、ということになればかなりの人が無権者に転落してしまうでしょう。高齢者の大半は選挙権を失うでしょう。そして有権者は有権者にとって有利な法制度を作るはずです。選挙権を得るために必要な納税額も年々引き上げられていくでしょう。
近代化によって身分制社会から抜け出し、選挙権を平等に持つことができるようになり、人権が国民全員に与えられましたが、今は近代を崩している時代であり、この近代化によって得られた制度が今後、少しずつ削られていくことになる恐れがあると思います。すでに今存在している身分制社会の萌芽に対して日本国憲法がいったい何ができたのか、そのこと自体がすでに若い人たちの間に、日本国憲法は無能ではないか、という不信感を抱かせていると思えるのです。だからこそ、今、当たり前に享受できているものを失った場合をそろそろ想像した方がよい時期かもしれないのです。
村上良太
■ジャン=ジャック・ルソー著「社会契約論」(中山元訳) 〜主権者とは誰か〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201401010114173
■モンテスキュー著「法の精神」 〜「権力分立」は日本でなぜ実現できないか〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312260209124
■ジョン・ロック著 「統治二論」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312221117340
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