香港のナショナルセンター「香港職工会連盟」(HKCTU)の事務局長が5月29日、28年前の6月4日に起こった“89年天安門事件”と労働者の運動について語りました。 稲垣豊さんの翻訳で紹介します。(坂本正義)
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2017年5月29日 蒙兆達(香港職工会連盟 総幹事)
【1989年6月4日 労働者を忘れる毋(なか)れ】
89年民主化運動の話になると、ほとんどの人が王丹、ウーアルカイシー、柴玲などカメラのフラッシュに映る学生リーダーを思い浮かべるだろう。 だがその後ろには無数の黙々無聞の顔が写っていた人々について語られることはほとんどなかった ―― 李旺陽という気骨赫々たる名前を聞くその日までは。(※訳注)
※訳注 李旺陽さんの死についてはこちらのブログの記事を参照
http://monsoon.doorblog.jp/archives/53674662.html
1989年、ごく普通の労働者であった李旺陽は、学生運動を支援するために湖南で「邵陽市工人自治聯會」を立ち上げた。そして22年にわたる極めて非人道的な投獄の災難に遭遇することになったのである。 李旺陽の当時の行動は決して彼一人の孤立したケースではなかった。北京工人自治聯合会の呼びかけに対して全国各地で労働者がそれに応えたのだ。燃え広がる炎のような学生運動とともに、労働者がたちあがった!
◎ 全国で花開いた「工自聯」
1989年5月、北京の天安門広場は人々が激しく往来し、至るところにびっしりとテントが設置され、民主主義を求めてハンストする学生たちに全世界の注目が集まっていた。 天安門広場に面した長安大街の道路の向こう側に、ややひっそりとたたずむ「工自聯」のテントがあった。学生運動の指導部は学生運動の「純潔性を堅持する」という理由から、工自聯が天安門広場内の「大本営」にテントを設置することを拒否したからだ。 5月末に三人の労働者リーダーが秘密裏に逮捕される事件が発生したことで、学生指導部は安全面を考え、工自聯を広場内の大本営に正式に迎え入れた。
工自聯の正式名称は「工人自治聯合會」。鉄鋼、鉄道、航空、教員、販売員などさまざまな業種の労働者から構成されていた。工自聯は1949年の建国以来はじめて政府から独立した労働者の組織として結成された。労働者ははじめて中国共産党の統制下にある「全国総工会」の鎖から解き放たれ、自由で新鮮な空気を満喫した。 工自聯の旗が天安門広場に翻り、新規会員を勧誘した。当初は数百人だったが、ピークには一万人以上が加盟し、その影響は上海、広州、南京、西安、邵陽、蘇州、長沙、福州など全国各地の都市に広がり、工自聯の組織が作られていった。それぞれの「工自聯」のあいだでも交流が行われたが、「北京工自聯」は「龍の頭」(中央組織)とみなされた。
◎ 学生を防衛する労働者のピケット部隊
工自聯結成当初、一部の労働者が学生の演説に感動し、学生を防衛する労働者組織の結成を提起した。かれらは街中をデモ行進して学生を応援し、ハンスト学生に医薬品や衣服などを届けた。 当時、多数の簡易軍服を着た人間が広場に混入して機に乗じて破壊活動を行っていたが、工自聯は「工人糾察隊」を組織して当直と巡回を担った。糾察隊メンバーは、人ごみの中から野菜切り包丁や鉄パイプを押収し、学生が凶器を準備しているという冤罪を作ろうとしていた警察の目論見を打ち砕いた。 また、学生リーダーの柴玲と封従徳を拉致しようとした正体不明の人間を摘発して事件を未然に防いだりした。
1989年5月20日、政府は戒厳令を出して、大量の軍隊を北京に進駐させた。工自聯はすぐに「北京工人決死隊」を組織し、天安門広場につながる四方の道路を封鎖して軍車両の通行を遮った。工自聯の結成メンバーは当時を次のように振り返っている。当時の工自聯の行動はきわめて機動的であり、衝突が発生したという報告を受けるとすぐに現場に駆け付けて学生を支援し、北京全土のゼネストを呼びかけ、組合員を招集して道路にバリケードをつくって軍隊の侵入を阻止し、政府に譲歩を迫ろうとした。
◎ 名もなき人々
工自聯は6月3日の夜までずっと広場と学生を防衛していた。生存者によると、人民解放軍が機関銃やマシンガンを人民英雄記念碑に向けて30分も撃ち続けたという。この目撃者は医師の助けによって、救急車で友誼病院に運び込まれた。病院内は遺体やけが人であふれ、死傷者のなかには工自聯のメンバーもみられた。
6月4日の天安門事件ののち、工自聯メンバーに対する大規模な逮捕と殺戮がおこなわれた。中国共産党はポーランドの連帯を想起させる労働者の組織的な力をおそれるあまり、全国各地でおなじような弾圧を展開し、北京の学生ほど有名でなかった地方の学生リーダーや知識人らは外部からの支援が限られた。 89年6月に最初に公表された「反革命罪」による死刑者リストには祖建軍、張文奎、王漢武、陳堅、羅紅軍、林昭栄、班會杰、卞漢武、徐國明、厳雪栄、王貴原、周向盛の12名の労働者が記されていた。 後日、さらに何江、何強、王連禧、李偉紅の4名が死刑となり、倪二福と〓朝陽が無期懲役となった。[〓は草かんむりに「内」]
さらに多くの未公開のあるいは記録されていない労働者が弾圧を受けた。いつの日にか、彼ら彼女らの名前を一人ずつ記すことができる日がくることを願っている。 歴史は彼ら、彼女らを忘れない。
【原文】 八九六四,毋忘工人(立場新聞)
https://thestandnews.com/politics/%E5%85%AB%E4%B9%9D%E5%85%AD%E5%9B%9B-%E6%AF%8B%E5%BF%98%E5%B7%A5%E4%BA%BA/
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