2016年11月、アメリカの次期大統領にドナルド・トランプが選ばれた。マスメディアや「識者」の予想を裏切る選挙結果だった。では、どのような「空気」がトランプの熱狂的な呼号に応えたのか。その十分な解明はなお精緻な社会階層的な分析を待たねばならない。しかし一般的な受け止めかたでは、既存の政治では「割を食っている」と感じてきた低学歴・非インテリの白人労働者を中心に噴出したところの、一方では「アメリカ第一」という反移民の排外主義、他方では民主党政権の生ぬるい理想主義が深刻な社会的格差を是正できる可能性を絶望視して、それなりの大胆な変革を求める庶民的な実利志向であるという。思えば、ときにこのような「ポピュリズム」に奔るアメリカの大衆の実像というものを、私たちはほとんどわかっていなかったのではないか。夏の終わりに見た佳作、ジェイ・ローチ監督の『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』を思い起こす。ひとつの仮説にすぎないけれど、トランプの支持者たちは、たとえば私のように『トランボ』などに感銘を受けたりはしないのではないだろうか。
傑出した脚本家、ダルトン・トランボ(ブライアン・クランストン)は、1947年秋、コミュニストであり映画界の労働運動に関心も深かったゆえに、下院非米活動委員会(HUAC)の公聴会に召喚される。早くも38年に設立されていたHUACは、冷戦さなかで朝鮮戦争中でもあったこの年に、ニューディール政策の遂行や対ファシズム戦争においてリベラルと協力して一定の影響力があった共産主義者の映画界からの一掃をはかったのだ。トランボは「赤」とみられる「ハリウッド・テン」のリーダー格であった。この場合、この「赤狩り」が、映画人の死命を制する表現の自由に固執する「容共」のリベラルをも指弾するに到ることはいうまでもない。「あなたは共産党員か、過去に共産党員だったか」を問われたトランボは、その質問そのものの不当性を論じ、証言を拒否して議会侮辱罪で起訴される。さらに1950年には、有罪を宣告され刑務所に収監されるのである。
「赤狩り」に協力しない映画人は、ジョン・ウェインやロナルド・レーガンやサム・ウッド監督ほかの協力もあってブラックリストに載せられ、徹底的に仕事を干された。その数は数百人に上るという。トランボは11ヶ月の刑期を終え、51年には出所するけれども、仕事と収入を失う。この映画は、およそ10年にわたる苦難のときを、彼がどのようにしたたかに生き延びたかを描いている。愛妻クレア(ダイアン・レイン)をはじめ家族に支えられながら、トランボはなかまを励まし、反共の権化のごとき評論家ヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)をうまくあしらい、そしてなによりも生活のために、「政治よりはカネ」をモットーとするB級の製作者フランク・キング(ジョン・グッドマン)と組んで、大衆路線の映画の脚本を書きまくる。それを友人名義で発表するわけだ。しかもトランボは、その間の53年には、あの『ローマの休日』(ウィリアム・ワイラー監督)のシナリオを友人の名義で書き、原案の卓越さでみごとオスカーを受賞している。
だが、スターリンの死、朝鮮戦争の終結、フルシチョフの登場など冷戦体制の緩和のなかで、断続的ながらブラックリスト上の人材の仕事復帰もはじまった。トランボにはついに、オットー・プレミンジャー監督から『栄光への脱出』、大物俳優カーク・ダグラスからは彼自身の製作になる『スパルタカス』(いずれも60年公開)の脚本依頼があった。ハリウッドが徐々に理性を取り戻してゆく。カーク・ダグラスは、トランボの名前をクレジットに載せるなら今後の仕事は保証しないという有力者の恫喝に「I Spartacs…」とつぶやく。私にはひとしお感動的な場面である。ローマの貴族クラサス(ローレンス・オリヴィエ)が拘束した反乱奴隷の一群に「スパルタカスは誰か、名乗り出よ」と迫ると、なかまのすべてが「スパルタカスは私だ」と次々に立ち上がる、それはその台詞なのだ。
非米活動委員会の赤狩りは、丸山真男が1953年の論文「ファシズムの現代的状況」(『戦中と戦後の』1957年所収)のなかで指摘するように、「民主主義体制」のなかにもときに胚胎する全体主義の証左にほかならず、アメリカにとって恥ずべき体験であった。それだけに、当時のハリウッドで指弾された人びとの受難、その傷跡、凜とした勇気ある抗い、それを通じての再生の凝視は、いくつかの心をうつ映画作品を残している。『追憶』(シドニー・ポラック監督、アーサー・ローレンツ脚本、バーバラ・ストライサンド/ロバート・レッドフォード主演、1973年)や『真実の瞬間』(アーウィン・ウィンクラー監督・脚本、ロバート・デ・ニーロ主演、1991年)などがすぐに思い浮かべられよう。アメリカが今なお公認の「価値観」とする、それをもって中国や北朝鮮の人権状況を批判しうる表現・結社・体制批判の自由、性や人種をこえるすべての人びとの人権擁護などは、非米活動委員会の息の根を止めてこそ偽りないものになりえたのだ。あらためてそう確信することができる。
とはいえ、『トランボ』には、彼が収監される場所に向かう飛行場で、「見物人」たちから「非国民!」と罵倒されるシーンがある。突飛に思われるかもしれないが、トランプの当選が決まったとき私が思い出したのは、そのシーンであった。それは、マッカーシーズムやHUACの活動は案外、ノンエリート大衆から一定の支持を受けていたのではないかという連想を引きおこす。非米活動を主導した上院議員マッカーシーは、むろん骨の髄から反共主義者であったが、貧農出身であり、高等教育を受けて専門職や高い地位の公務につく「既得権益層」を撃つポピュリズムの色濃い政治家でもあったという。それゆえに、トランボのように、高収入で優雅な生活を享受しながら自由や平和を語る、左派またはリベラルのハリウッドの映画人が標的にされたのである。
ブルーカラーや小営業者や農民からなるアメリカの庶民・大衆は、半数ほどは生涯州境を超えず、兵役以外には海外に赴いたこともない人びとであるという。彼ら、彼女らは多くの場合、低学歴のプアホワイトであり、「見たいものだけしか見ない」人びと、多様な価値の共存を不可欠とする民主主義を容易には内面化できない人びとである。人種間、男女間、異なる性的志向の間の無条件の平等とか、既存の「秩序」や「空気」を攪乱しかねない表現の自由にはなかなかなじまない反知性主義に傾きもする。ベトナム反戦のデモに建設や港湾の労働者が襲いかかった60年代の「ハードハット反乱」を想起したい。いち早く戦場に駆り立てられたこのヘルメット部隊はおそらく、大学で「ヒッピーの自由」を謳歌しながら国家の要請に逆らう若者たちを、許しがたい気楽な特権層とみなしたのだ。 アメリカ映画の登場人物から大衆の人間像を拾うならば、それは、極端な例ながら、静かな南部の「われらの町」に無遠慮にバイクの爆音を響かせて侵入する若者たちをあっさりと撃ち殺してしまう『イージー・ライダー』(デニス・ホッパー監督・脚本、1969年)の町民である。もっと典型的なのは、『十二人の怒れる男』(シドニー・ルメット監督、レジナルド・ローズ脚本、1957年)の陪審員、ヘンリー・フォンダを除く11人、とりわけリー・J・コッブ、エド・ベグリー、ジャック・ウォーデンたちであろう。彼らは狭い視野の先入観にとらわれてまさに「見たいものだけしか見ない」。それら反知性主義の群像造型はみごとであり、それだけに、緊迫の激論を通じて彼らの認識が深まり、理性の合意に到る結末はあまりにも感動的で、この作品をいわば不朽の名作としている。
この文章の文脈からいえば、草の根の民主主義の実在を確信させるこの名作は、ポピュリズムに対するリベラルな理性の究極の勝利という視点で貫かれている。それはある意味でHAUCの粉砕宣言ともいえよう。しかし今、このようにも見ることができよう−−このリベラルな理性の勝利は十分の討議が保証された陪審員室のなかだからこそ可能なのではないか。現実の政治過程では、狭い先入観にとらわれた11人が空気を支配するのだ。思えば私たちはこれまで、ヘンリー・フォンダの眼を通したアメリカを、私たちにとっての「見たいもの」としてこなかっただろうか。
そう考えると、なまの大衆にへばりつき、その視点からその存在の明暗を凝視するすぐれた作品は、これまでのアメリカ映画には意外に少ないことに気づかされる。いま「トランプの時代」なればこそ、そんな作品を待望する思いひとしおである。既存の傑作を例示すれば、さしあたり1998年の『シンプル・プラン』(サム・ライミ監督、スコット・スミス原作・脚本)と、2013年の『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(アレクサンダー・ペイン監督、ボブ・ネルソン脚本)があげられよう。くわしく紹介するいとまはないけれど、前者は、墜落したヘリコプターの強奪された大金をめぐって雪深い山村のしがない人びとがあさましく狂奔し、地味ながらかけがえのない人生を失ってゆくサスペンスの悲劇であり、後者は、いかさまの賞金を受けとろうと旅する老父(ブルース・ダーン)と彼に同行するサラリーマンの長男(ウィル・フォーテ)が、途上の故郷の町の酷薄で小ずるい親戚や「幼なじみ」たちをやり過ごしながら、いらだちの末に親子の絆を取り戻してゆくヒューマンドラマだ。いずれも鈍く光る、切実この上ない作品である。
(『KOKKO』2017年2月号)
熊沢誠(甲南大学名誉教授 労使関係論)
※上の文章は熊沢教授の了解によるホームページ「生きついでゆく日々」からの転載です。
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■「社会的労働運動」としての連帯労組・関西地区生コン支部 「社会的労働運動」とはなにか 熊沢誠(甲南大学名誉教授 労使関係論)
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