90年余り生きた父の葬儀の日には遠方から駆けつけて来られた方々も少なくなく、「恩人です」とまでおっしゃる方がひとしきり涙を流し、また顔を紅潮させ私の手を握ってお話しして下さいました。列が滞り葬儀会館の方が何度も「お時間が…」と促しに来られるほどで、父の人との広い繋がりと深さに内心驚いていました。
約70年前、少々気弱で小柄な学生だった父は、自由に学ぶことも許されない時代を息苦しく思い、思う存分好きな本を読める日を待ち望む青年でした。しかし抗うことのできない力に運命を決められ、命さえ自分のものであってはならない時代にあって、とうとう召集され家族にも会えないまま中国での軍隊生活が始まりました。上官の理不尽な命令には、殴られても罵倒されても必死に従うだけでした。しかしそんな兵隊暮らしもまもなく終戦となり終わったのです。もう戦闘は無いという安堵感と共に陸路を移動し続け、乗せられた船は日本海を渡らず北上。そこには想像を絶する残酷なシベリア抑留が待っていました。
“戦争は終わっている。何としても生き延びたい”と切に願う若い父は、シベリアの過酷な毎日を朦朧としながらも辛うじて生きていました。ところがある日、自分の迂闊さから絶望的な状況に陥ってしまいます。大事な食料を盗まれたのです。もう死ぬのは時間の問題です。ところがその絶望の中で学友との奇跡的な出会いがあり、自身のパンを父に分けてくれたのです。僅かな食料でやっと命が支えられている、そんな状況の中で他人にパンまで分け与えることができるのか?と、俄かに信じることはできませんでした。しかし、確かに彼は分けてくれたのです。学友との出会いは奇跡でした。絶望の淵にいた父は、そのパンで90歳まで生きることができたのです。
日本に帰ってからは、遅れを取り戻したい一心で必死に受験勉強をしました。そしてその後は研究課題に取り組みながら、高校や大学で教員をしてきました。私が子どもの頃には、机に向かう父の後ろ姿をよく見ましたが、懐かしく思い出すのはいつも学生や仲間が我が家に来ていたことです。賑やかな食卓で私を胡坐の中に座らせた父は、天井に向かって大きく口をあけよく笑っていました。 半面、弱い立場の人が理不尽な思いをし、不当な扱いをさせられることには耐えられなかったようで、権力者と闘うこともありました。またアジアからの留学生が周りの無理解に悲しんでいると聞きくと、周りの人達に理解を求めるため、病み上がりに遠くの地まで出かけていくなど様々なことがありました。 晩年には「僕はね、小さな人間だと思うよ。そしてね、論文より小説が好きだったから本当は小説を書きたかったよ。」と小さく笑って話していましたが、人生の終わりになって、念願の抑留体験記録『一塊のパン』を出版することができたのです。人を観察し文章を紡いで表現することが好きだった父の夢は遂に叶えられました。アルツハイマーの父は、出版できたことを喜んではすぐに忘れましたが病の特徴のお陰で、出版のことを聞く度に驚き“何度でも”喜ぶことができました。 そして、私が遠方で暮らす父を心配すると「与えられた仕事というのは誰かの役に立っているのだから、簡単に辞めると決めてしまうものではない」と最後まで父でいてくれたのでした。
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※ 昨秋、第2回シベリア抑留記録文化賞を受賞された上尾龍介さんが今年5月4日、老衰のため逝去されました。享年91歳でした。心よりご冥福をお祈りいたします。長女の秦摩耶さんに思い出を記していただきました。(ソ連による日本人捕虜・抑留被害者支援・記録センター編集部)
出典:シベリア抑留者支援・記録センター通信No.17(2017年7月5日発行) 編集・発行:ソ連による日本人捕虜・抑留被害者支援・記録センター URL:http://sdcpis.webnode.jp/
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