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橋本勝21世紀風刺絵日記
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2017年11月01日10時33分掲載
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アジア
仏教国タイにおける国家と宗教 プミポン国王後への一視点<中>
1932年の立憲革命により、タイは絶対王政から立憲君主制のもとでの議会制民主主義に移行したが、国民の王室崇拝の念は変わらなかった。1957年にクーデターで政権を奪取し首相の座に就いたサリット元帥は、みずからの独裁政治を正当化するために国王の権威を積極的に援用するようになる。サリットは、議会制民主主義をタイの伝統になじまないものとして否定し、古来の民族、仏教、王制からなる「タイ的原理」を基本とした家父長的政治を現代に新しく蘇生させようとした。(永井浩)
▽「タイ式民主主義」
サリット軍事政権は、王室を後ろ盾に積極的な経済開発を推進した。反共親米の対外姿勢にもとづいて米国や日本からの外資導入を軸とした工業化を進め、東北地方を中心とした道路網の完成など、地方開発や教育改革にも力を入れた。約5年間の政治指導はタイ社会を大きく変貌させ、1963年の彼の死後も軍事政権はひきつづき開発独裁政治を維持した。政権に対する批判はすべて力づくで封じ込められた。王室批判は不敬罪で罰せられた。
サリットの開発政治と並行して、プミポン国王は灌漑整備などの「王室プロジェクト」と呼ばれる社会活動の現場に足を運んで国民との交流を深め、国民の間に絶対的求心性を有する存在となっていく。そして、開発政策の矛盾がしだいに顕在化し、軍政批判と民主化を求める国民の声の高まりが政治的不安定を招くようになるにつれて、憲法では認められない国王の政治介入の機会が増していく。敵対する両勢力を和解させ、社会の安定をはかる調停役としてプミポン国王の存在は不可欠となり、国民もそれを期待した。
軍政批判の先頭に立ったのは、学生たちだった。彼らは、急激な経済開発がもたらした貧富の格差の拡大や首都バンコクを頂点とする都市の発展のかげで置き去りにされた農村の窮状などの問題解決を訴えた。こうした国民的課題に目を向けず、外資と結託してみずからの懐を肥やすことに熱心な軍人や政治家ら一握りの特権層の腐敗と日本の「経済侵略」がやり玉にあげられた。1972年に国民に呼びかけた「日本商品不買運動」の成功に意を強くした学生たちは、翌73年10月に憲法制定の請願運動を開始する。 バンコクの目抜き通りを埋め尽くした学生と市民のデモ隊は、国王の肖像を抱いて王宮をめざしたが一部が暴徒化した。軍と警察が武力制圧に乗り出したため、多数の死者を出す大惨事となった。 プミポン国王が介入し、軍政トップのタノーム首相とプラパート副首相らに国外退去を求め、サンヤー元最高裁長官を首相に任命し混乱の収拾にあたらせた。
「10月14日政変」あるいは「学生革命」と呼ばれるこの出来事によって、長期軍事政権は崩壊、民主化時代が幕開けした。軍政下で抑えつけられていた労働者や農民は、さまざまな要求を掲げて立ち上がった。労働組合の結成を認められた労働者はストライキや集会で賃上げなどの労働条件の改善を求め、農民は土地改革や小作料の引き下げなどを要求した。
しかし、1976年に軍がクーデターによって権力を奪還、その後は軍と民主化勢力との攻防が繰り返され、民主化は一進一退する。 1980年に首相の座に就いたプレムは、軍人出身ながら権力欲が強くなく清廉なイメージから人望を集め、また王室からの厚い信任を得た指導者だった。彼は王室、軍、そして経済発展のなかで発言力を強めてきた実業家や都市中間層などの利害のバランスをとりながら、「上からの民主化」を徐々に進めた。8年にわたるプレム政権のもとでタイは順調な経済発展をとげ、民主化も進んだ。軍の不満分子は2度クーデターを試みるが、いずれも失敗に終わった。国王の支持を取りつけられなかったことが、大きな理由のひとつといわれる。
そうしたなかで、プミポン国王の「国父」(ポークン)としての存在感を内外に強烈に印象づけたのが、1992年に起きた「5月の暴虐」とよばれる惨事の収拾で国王がみせたカリスマ的な役割だった。 同年、クーデターで前年に文民政権から権力を奪ったスチンダー陸軍司令官が首相に就任したため、バンコクを中心にスチンダー首相の辞任を求める集会が連日のように開催されるようになった。同年5月、反政府デモと軍・警察が衝突、デモ参加者が多数犠牲になった。 惨事をうけて、国王は深夜に調停に乗り出し、テレビ・ラジオをつうじて特別声明文を読み上げた。国王は、今回の事態が「どちらの側が勝つか負けるかの問題ではなく、すでに祖国の存亡の危機にかかわる深刻な状況に発展している」ことを強く訴え、スチンダー首相とデモの指導者チャムロン前バンコク都知事を王宮に呼んだ。 国王は、対立する両指導者に事態の収拾に取り組むように指示した。この結果、軍は発砲を中止、群衆は抗議集会を解散した。その後、スチンダー首相の辞任が発表された。
一連の経過は、すべてテレビをつうじてタイ全土に放映されただけでなく、映像の一部は世界中をかけめぐった。スチンダーとチャムロンが、椅子に腰かけた国王の前に進み出て床で拝跪し国王の指示をうける姿は、さながら父親から悪事をたしなめられる子どものようであった。「国父」としてのプミポン国王の超越的地位を強烈に印象づけるこの光景がきっかけとなって、「タイ式民主主義」が国際社会から注目を浴びるようになった。
タイの民主主義は、欧米の物差しでみればまだ「半分の民主主義」であり、国王の政治的助言と介入なしには前進できなかった。その是非をめぐる議論はあるものの、これが欧米とは異なる背景をもつ東南アジアの途上国の現実だった。 そこで問題は、名君の誉れ高かったプミポン国王亡きあと、いかにして経済発展と社会的安定を維持しながら、未完の民主化を真の民主主義へと育て上げていくかである。(つづく)
参考文献 桃木至朗他編集『新版 東南アジアを知る事典』、平凡社、2008年 末廣昭『タイ 開発と民主主義』、岩波新書、1993年
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