長い間、こう言われてきた。アジアで植民地にならなかったのは日本とタイだけだ。親たちはこう言って「素晴らしい国に生まれたと思った」と語ってきた。韓国や台湾やフィリピンなどを植民地にしたのは同じアジアの日本である。それらの国々は戦後、独立を勝ちとり、さらに数十年に渡る軍事政権との闘いを経て民主主義を勝ち取った。
一方、日本は今、植民地になろうとしている。どこにされるのか、と言えば安倍政権にである。民主主義を形作った憲法を廃棄していずれは国民主権を奪いたいであろう人々が与党・自民党の右翼議員グループである。主権を奪われた人々は何か。まさにそれが植民地ではないか。
国民に主権がなく、基本的人権も制限され、一部の統治者が決めた方針に大半の国民が唯々諾々と従うほかない。だんだんこの国はそうなっている。本来、権力者を縛るものである憲法を安倍首相が俺が年内に新憲法を提示してやる、と言っているのである。選挙では争点を隠し、国会ではきちんと議論せず、強行採決を繰り返すばかり。憲法も守られない。主要な新聞も政府に統制されている。2012年12月の総選挙で安倍政権が誕生して以来、着々と日本は「植民地」に近づいてきた。未だ選挙権を国民は持っている。だが、いずれそのうち選挙権すら失うだろう。
20世紀初頭、日本が朝鮮半島の人々から国家主権を奪ったときは中国やロシアなどから国を守るためには日本政府が統治して日本軍が朝鮮人を保護する必要があるとして、朝鮮人から主権を奪い、日本の軍隊を駐留させて植民地化を強行した。このことは今日、日本政府が改憲を機会に日本国民に対して行おうとしてることとよく似ている。今度は自衛隊を戦闘集団に改造して、日本人を外敵から保護するためと称して日本人から主権を奪おうとしている。土地を奪われた朝鮮の貧農と同様、日本の大衆もまたもっと貧困に落ちていくだろう。これが植民地の内実である。歴史を紐解けば朝鮮半島で起きていた事態と今日、日本国内で進行している事態には共通点がある。つまり、日本政府は自国民をエリートと大衆に分け、政財界のエリートが非エリートの大衆を植民地化しはじめたのである。これがグローバリゼーションとともに進行している。
そこから日本の大衆が「独立」を勝ち取り、民主主義を自ら勝ち取るまでに30年、あるいは40年くらいかかるのだろうか。韓国も台湾もフィリピンも皆、そうして勝ち取ってきた。学生運動から生まれた台湾の民進党も結党から30年かけてようやく2016年に大統領 (総統)の座と議会を制した。日本は例外だと言っていられる時代ではなくなった。学力も低下していると伝えられている。アメリカの大学で優秀な成績を収めている留学生は今では中国人や韓国人だと言う。韓国や台湾の人々が味わった植民地の経験を日本人もまさに自ら選ぼうとしてるかのようだ。だが、それもよいだろう。そうして長い年月をかけて苦労して差別される植民地を自ら経験した後、初めてアジアに本当の仲間ができるだろう。立憲民主党も本気で政権奪取に取り組むつもりなら、石の上にも30年闘い続ける覚悟が必要ではないか。
南田望洋
■選挙は策略や裏切りやだまし討ちではない 排除するための「合流」、臨時国会冒頭解散 日本の政治家はいつから卑怯になったのか
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201710211610166 日本政府は20世紀初頭に朝鮮半島で行った策略を今度は日本国民自身に向けて着手したようである。日本国民を植民地化して従順に教育し、必要があれば特攻にも志願するようにしようとしているようだ。実際、太平洋戦争では植民地の若者の多くも皇軍の兵士として戦った。日本政府は中国や朝鮮に対する敵対心を日本国民に植え付け、国民同士(かつての朝鮮植民地と今起きている日本植民地)が連帯しあわないように教育と報道への統制を強化している。植民地支配を確立するためにこそ、集団幻想を必要とする。それが教科書の改訂であり、歴史修正主義である。中曽根政権以来、自民党が今日の安倍政権まで継続して行ってきたのはこの路線に他ならない。日本国民から主権を返上させる時に必要なのが「優秀な日本人」というプライドと集団幻想なのである。だから集団幻想に冷や水をかける従軍慰安婦や南京大虐殺などはあってはならないからなかったことにされてしまう。日本政府が抱く集団幻想の象徴は日本国民が主権を未だ持ってなかった明治という時代であり、今年を「明治150年」と見る歴史観であろう。明治150年という言葉には下僕たる日本国民は生意気に主権など持つべきではない、という意味が隠されている。「こんな人たちに負けるわけにはいかない!」と日本国民を指さした安倍首相。日本国民を蔑視する視点は自民党の改憲の集会に満ちている。
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