本日は4月3日。済州島でのいわゆる「四・三事件」に触れておかねばならない。本日が、1948年の「四・三」から70周年となる。現地の平和公園で、文在寅大統領も参加した追悼集会が行われた。
済州島(チェジュド)は気候温暖で、ピースツアー訪問時の3月26日には、桜もほぼ満開だった。のどかな田園風景が広がる島である。行政区域としては、済州特別自治道。島ではあるがとても広い。淡路より、佐渡より、沖縄本島よりも広い。島の最高峰・漢拏(ハルラ)山(標高1,950m)は、韓国の最高峰でもある。この島は、この山の噴火でできたという。金石範か「4・3事件」を題材に書いた日本語小説の題名が「火山島」である。「済州火山島と溶岩洞窟群」が、2007年に韓国初の世界自然遺産に登録されている。
この、美しくものどかな、今は観光地となっている火山島で、70年前に大虐殺があった。最も信頼できる「済州四・三平和財団」のパンフレットによれば、「7年にわたる過程での人命被害は、2万5000〜3万余名」という。しかし、公的に特定された被害者数は1万4231名(後遺障害者163名を含む)。この犠牲者調査は2002年に開始された。それまでの半世紀間、事件は闇に葬られていたのだ。犠牲者の遺族は、「連座」制に苦しめられてきた。韓国民主化の過程で、ようやく真相解明と犠牲者や遺族の名誉回復が実現しつつあるのだ。
この玄武岩の島は、大戦時には全島が日本軍の要塞となっていた。中国への渡洋爆撃の飛行場があり、特攻艇震洋の基地があった。敗戦時には、7万と言われる将兵が地下要塞を張り巡らして、米軍の上陸に備えていたという。
終戦によって日本の支配から脱した朝鮮は、その南部がアメリカの軍政下に置かれた。そして、全半島一体の独立を望む勢力と、北とは分かれてアメリカ軍政下地域(現在の韓国)だけの独立国を作ろうという勢力とが厳しく対立した。チェジュ島「4・3事件」は、その対立の中で生じた悲劇である。アメリカ軍政部と、その傘下にあった李承晩政権とによる、左派ないしは統一派に対する大弾圧。それがこの事件の基本的性格と言ってよい。
実は、この「事件」に対する公式の名称はまだない。いま、漢拏山の麓に立派な記念館が建設されており、その1階の最初の展示室に、「無銘の碑」が横たわっている。「事件」に公式の名称が付されたら、それを刻するのだという。もっとも、2014年以来、「四・三犠牲者追念日」は国の法定記念日とされ、盛大な追悼行事が行われるようにはなっている。しかし、「4月3日の事件」と言うにふさわしいか疑問なしとしない。
1948年4月3日は、左派(南朝鮮労働党)の蜂起による警察署襲撃事件があった日である。もちろん、それまでの米軍政・警察・右翼による左派弾圧の前史があり、4月3日以後の、官憲と右派勢力からの残虐な報復があった。
事件の直接のきっかけは、前年47年3月1日(独立節)に起きた。デモ隊への警察の発砲によって6人の死者が出た。これに、大規模な抗議のゼネストが敢行されると、警察は左派幹部の「検束」で応じた。47年の「三・一」から、48年「四・三」までの1年間での検束者数は2500人にも上ったという。
4月3日以後、警察と軍では、蜂起派に対する対応が異なっていた。軍隊(第9連隊)は、蜂起が極右勢力の横暴によって惹起されたものとの見方から、平和的な解決を方針とした。蜂起派に帰順を呼びかけ、山中にあった左派に帰順を呼びかけ、いったんは「武装解除と下山すれば罪を問わない」との合意が成立したが、米軍政司令官の武力鎮圧方針決定で壊れた。
大韓民国独立のための「単独選挙」は1948年5月10日に行われ、チェジュ道のみが投票率が過半数に達せず無効となった。李承晩政権は同年8月に発足したが、「赤い島」を徹底して弾圧した。
そのやり方は、「日本軍の三光・三尽作戦」に範をとったと言われる「焦土化作戦」であった。海岸線から、5キロの線を引き、それ以内の山林にひそむ者を皆殺しにするという苛烈なもの。焼かれて廃墟になった村は300余。消失棟数は4万に及んだという。
この事態は、1950年6月の南北戦争(朝鮮戦争)間も続き、1954年9月道警察が、漢拏山禁足地域指定を解除したことで終熄したとされる。47年3月1日から数えて、7年半である。しかし、その後も事件の後遺症が継続したことは前述のとおりである。
本日配信の共同記事は、要領よく次のとおりまとめている。 【済州島共同】韓国南部の済州島で1948〜54年、島民数万人が軍などに虐殺された「4・3事件」の発生から70年となる3日、済州島で犠牲者の追悼式が開かれた。惨劇を知る遺族ら約1万5千人が参列。文在寅大統領は「国家の暴力によって苦痛を与えたことを改めて深く謝罪する」と演説した。日本からも遺族の在日韓国・朝鮮人らが参列した。
大統領の出席は、2006年の盧武鉉大統領以来2回目。事件は、朝鮮半島の南北分断体制の固定化に反対する左派勢力の一部が蜂起したことが発端で、長らく「共産主義者の暴動」と見なされ、遺族も社会的に疎外されてきた。」
また、昨日(4月2日)の毎日の記事。 「日本の植民地支配からの解放後、朝鮮半島北部は旧ソ連、南部は米国が統治していた。新しい国造りを巡り、南部だけの単独選挙が実施されれば分断が固定化するとして反対する勢力が武装蜂起し、警察署や選挙事務所を襲撃。これに対し軍や警察が「焦土化作戦」で鎮圧に乗り出し、村を焼き払い住民を虐殺した。
その後、軍事独裁政権が続き、事件は「共産主義者の暴動」と見なされ、犠牲者の遺族も社会的に疎外されてきた。高さんは「学校を出ても『連座制』で出世できず公務員にもなれない。どこへ行っても『アカ』呼ばわりされた」と振り返る。
今年に入り南北関係は急速に好転し、南北首脳会談も予定される。政府の調査委員会で真相究明に当たった経験を持つ済州4・3平和財団の梁祚勲(ヤン・ジョフン)理事長は「70年前の済州島民は統一された祖国を望んだことで、おびただしい犠牲を払った」と指摘。「今後、南北問題が平和の方向に向かえば、4・3事件は(統一を望んだ蜂起と)再評価されるだろう」とみる。」
まさしく、「70年前の済州島民は統一された祖国を望んだことで、おびただしい犠牲を払った」というのが、今の韓国社会の良識が寄せる評価なのだろう。
70年前には、島民(左派)が武装蜂起を余儀なくされた。蜂起の勢力の武器は、小銃30丁だけだったという。徹底して鎮圧され、焼かれ、拷問され、殺された。その痛ましさに胸が痛む。いま、我々は、もっと強大な社会変革の「武器」をもっている。それが、表現の自由であり、政権交代のルールである。
小銃ではなく弾丸でもなく、投票用紙と言論・出版・放送の自由をこそ大切にしよう。そのことを教えてくれた、「四・三」の犠牲者を心から悼みたい。
(2018年4月3日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.4.3より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=10159
ちきゅう座から転載
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