「安倍内閣は退陣せよ」と叫ぶ市民たちによって国会議事堂周辺で行われたデモが盛り上がった4月14日午後、国会議事堂からそう遠くない文京区民センターで、昨年12月18日に98歳で亡くなった、数学者の福富節男さんとお別れする会があった。1960年代から2000年代にかけて多くの反戦市民運動や反権力運動に参加し、常にデモの先頭に立っていたことから「デモ屋」との異名を奉られた福富さんにふさわしい追悼の集いだった。
福富さんは戦時下の1942年に東京帝国大学数学科を卒業した数学者だった。専攻は位相幾何学。戦後、日本大学教授となるが、大学の運営をめぐって大学当局と対立し、1962年、同大学を追われる。翌63年に東京農工大学助教授となり、同教授を経て83年に退官する。
この間、福富さんが反戦市民運動に登場してくるのは、1965年のことである。 この年、世界の焦点となっていたベトナム戦争が一気にエスカレーションする。2月7日に米軍機が北ベトナムのドンホイ基地を爆撃したからである。「北爆」の開始であった。これを機に、世界各地で米国のベトナム政策に抗議する反戦運動が燃えさかる。 日本では、4月24日、作家の小田実、開高健、哲学者の鶴見俊輔らの呼びかけで、ベトナムの平和を要求する人たち約1500人が東京都千代田区の清水谷公園から東京駅までデモ行進し、その後、集会を開いて「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を発足させた。日本における本格的な反戦市民運動の誕生であった。 ベ平連は、その後、月1回の定例デモのほか、アメリカのニューヨーク・タイムズ紙に反戦広告を出したり、徹夜ティーチ・インを開催したり、アメリカの著名な平和運動家を招いて日米市民会議を催したり、横須賀に寄港した米空母イントレピッドの水兵4人の脱走に手をかす、といった多様でユニークな運動を展開する。
同じころ、「ベトナム問題に関する数学者懇談会(ベト数懇)」が結成される。福富さんや東京大学、九州大学などの数学者がメンバーだった。当時のメンバーによると、フランスの数学者、L・シュワルツがこの年4月に来日し、日本の数学者と懇談。その席で、シュワルツは、米国の数学者のS・スメールが反戦運動を行ったことからカリフォルニア大学バークレイ校の職を追われそうなので、日本でも彼の救援活動を進めてほしいと要請、これを受けて日本でも救援の署名運動を行うことになり、ベト数懇が結成されたという。
5月22日、福富さんは清水谷公園に出かけていった。この日はベ平連の第2回定例デモの日で、清水谷公園はその集合地だった。そこに集まってくる人たちにスメール救援を訴えるためだった。福富さんがベ平連の集会・デモに加わったのはこれが初めてで、以後、福富さんはベ平連の活動にのめりこんでゆく。
当時新聞社の社会部記者だった私は、1966年から大衆運動の担当になった。ベ平連も取材対象になったので、ベ平連のデモがあれば出かけて行った。 ベトナム戦争が1973年に終息したのにともない、ベ平連は翌74年1月に解散するが、結成から解散までの間、数え切れないほどのデモをした。1970年は日米安保条約が固定期限(10年)切れを迎える年であったから、条約の自動延長に反対する運動が労組や平和団体によって展開された。ベ平連は「インドシナ反戦と反安保」を掲げて6月から7月にかけ、35日間に及ぶ「毎日デモ」を繰り広げた。
ベ平連デモの現場に行くと、いつも必ず福富さんの姿をみかけた。ベ平連のデモには常連が多かったが、福富さんのデモ参加回数を上回る人は思いあたらない。 福富さんといっしょに活動した武藤一羊さん(社会運動家)は、「お別れする会」でこう語った。「デモをやるときは、警視庁と交渉してコースを決めなくてはならない。福富さんはその交渉役だったが、いつも徹底的に粘った。デモにとってできるだけ効果のある道路を確保しようとしていたんですね。警察側もたじたじだった。それに、デモをやっていても、とっさの判断が見事で、しかも、それを直ちに行動に移す人でしたね」 他団体との共同行動にも熱心だった。
なぜ、これほどまでに反戦デモに没入したのか。おそらく、若いころの戦争体験が、福富さんを反戦運動に駆り立てていたのではないか、というのが私の推測だ。 1919年にサハリン(旧樺太)に生まれる。父は薬屋のかたわら製氷業をしていた。東京の旧制高校を経て1942年10月に東京帝国大学数学科を卒業するが、卒業予定は43年春。太平洋戦争の戦況が緊迫してきたため半年も繰り上げ卒業となったのだった。 卒業と同時に徴兵され、樺太の砲兵隊に配属される。その後、陸軍中央特殊情報部で暗号解読の教育を受け、44年11月にフィリピンに派遣される。まもなく戦況の悪化で45年1月、マニラを脱出し、敗戦は東京で迎えた。 一番多感な時期に戦争に翻弄されたと言ってよかった。そうした体験が、福富さんの行動の奥に「戦争にはなんとしても反対しなくては」との決意を刻みつけていったのではないか。
それから、デモというものについて福富さんが抱いていた考え方も大きく影響したのではないか、と私は思う。 福富さんは、デモは人と人とを結びつけるコミュニケーションの手段として極めて有効、という考え方をもっていたようだ。つまり、自分の考えていることを不特定の多数の人々に知らせ、理解してもらうためには、道路を歩きながら、言葉なりプラカードなりで自分の意見を周りの人々に伝えるのが有効だと思っていたようだ。デモの効用を信じていたのだ。
福富さん唯一の著書である『デモと自由と好奇心と』(第三書館刊、1991年)には、こんな一節がある。 「政治的意見であれ、社会的要求であれ自由にそれらを表現する権利が人びとにはある。誰もこの権利を使うことを力で押しとどめてはならない。なにかを広くうったえたいとき活字や映像のメディアを利用できる立場のひとは国民全体からみればたいへん少数だ」 「デモは誰にでもできる。デモによる表現は文章表現より粗く、詳しさ、精密さ、豊かさでは劣る。しかし誰でもが意見の表明に参加し、協力できるところに特色がある」 「デモは不特定の人びとが見ている。屋内の集会では主題に関心があって入場した人びととむきあうのだが、デモはそうでない人びととも接することができる」 福富さんといっしょに活動した人の1人は、追悼文の中で「福富さんは左翼の演説やシュプレヒコールの言葉では市民に伝わらないとよく批判し、街頭に出て自らの宣伝術をみがいていた」と述べている。
「観客民主主義を止めなくては」という思いが福富さんに強かったことも影響していたように私は思う。権力の側は国民を「観客席」に押し込め、国民を管理・支配しようとする。だから、真の民主主義を実現するためには、私たちは「観客」とさせられることから抜け出さなければならぬ。国の主人公となるために、さあ、集会に出よう、デモをしょう。そう考えていたのだろう。
カレーライスをつくるのが趣味だった。ある時、私の自宅にも送られてきた。福富さんに最後に会ったのは、2011年10 月29日に開かれた「吉川勇一さん・武藤一羊さんの80+80=160歳を祝う会」でだった。吉川さんは元ベ平連事務局長。祝杯の音頭をとったのが福富さんだった。この時の会場が文京区民センターだった。
私は、戦後の反戦市民運動は3人のヒーロー・ヒロインを生んだと考えている。 まず、1960年の日米安保条約改定阻止運動で、たった2人で「誰デモ入れる声なき声の声の会 皆さんおはいり下さい」という横幕を掲げて安保反対デモを始め、反戦市民グループ「声なき声の会」を創設した画家の小林トミさん。次は、ベトナム戦争中、「アメリカはベトナムから手をひけ」と書いたゼッケンを胸につけ8年余にわたり毎日、自宅から勤務先まで通勤した団体役員の金子徳好さん。そして、福富節男さんである。 小林、金子さんはすでに故人。福富さんも亡くなったことで、3人の足跡はいまや歴史となった。
岩垂 弘(いわだれひろし):ジャーナリスト 初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
ちきゅう座から転載
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