遅ればせながら國分功一郎著「近代政治哲学 〜自然・主権・行政」を読んだ。哲学者の國分氏がちくま新書から本書を世に問うたのは2015年4月のことで折しも自衛隊の海外での戦闘を可能にする安保法制が制定されようとした頃だった。本書が書かれたのは〜推測になるが〜この安倍政権によって多くの人が民主主義の危機を感じたことと切り離せないのではないか、と思われる。とくにその危機感は2013年秋に国会に提出された特定秘密保護法で先鋭なものになり、2015年の安保法制の強行採決までたくましいエンジンで丘の斜面を登っていくように次々と安倍首相のもとで戦後の政治を変える新たな政策が打ち出されていったのである。それら一連のプロセスを見れば国会での議論が不足している、という批判や、重要法案なのに強行採決が常態化しているということがあり、そこから国会の軽視、ひいては行政権の肥大、ということがキーワードとして浮き上がってきた。
本書「近代政治哲学」は安部政権を直接取り上げたものではない。近代民主主義の基礎を築いた17世紀から18世紀の英国、フランス、ドイツの政治哲学を中心に、それらの基本概念がどのように構築されたかを紐解いていくものだが、非常に楽しく読める本に仕上がっている。それはルソーの「一般意思」と市民が一堂に会するという「常会」との関係とか、ホッブズとルソーの「自然状態」に関する思考の違いなど、原典となる「リヴァイアサン」や「社会契約論」や「統治二論」などを読者が一読しただけでは十分にわからない点を重点的に押さえているからだ。
特に筆者が興味深く読んだのはルソーの「一般意思」を國分氏が説明しているくだりだ。ルソーの言う「一般意思」なるものは立法権にのみ限定されていたと國分氏は解説し、ケースバイケースの事例を扱う行政行為については国民の総意で統治することは不可能であるという。しかし、ルソーの凄みは行政権力が一般意思(社会契約によって成立した主権者の意思=制定された法律)と異なる行政行為をしている時は国民が一堂に会してチェックできる「常会」を設けていた、と言う。このあたりは誤解のありがちなところで、「常会」とは法律を制定するための集まりと思っていた人が多いのではななかろうか。しかし、そうではなく、行政権の逸脱を一般意思の担い手である「主権者」がチェックする、ということである。そこまで織り込んでこそ、一般意思が最高の位置に立つと言えるわけだ。常会では次の2点を検討し、必要なら変更を施すこともできる。
・統治形態は現状でよいか ・統治者は現状の人々でよいか
これは大きな判断である。主権を持つ国民は行政をつかさどる人々が一般意思にぴたりと一致した行政を行うとみるほどナイーブではなく、逸脱は常に起きうる。だからそのような場合に国民が審査し、必要なら政府を変更するだけの力を持つことが必要だということである。というのもまさに一般意思が主権者の意思だからだ。
近代政治哲学を今、学びなおす意味は今日の日本の政治を考える上で不可欠と言えよう。たとえ安倍政権を批判する人々であったとしても近代政治の基礎の考え方で誤解していたり、分かっていない点が多々あるのではなかろうか。筆者も例外ではない。自分がよって立つ地盤は何なのか、その基礎を作るのに遅すぎるということはない。その意味で本書は学びなおすための貴重なヒントに富む一冊である。ルソーやホッブズやロックやヒューム、カントらのほかにスピノザについての説明があるのも魅力的である。
村上良太
■ジャン=ジャック・ルソー著「社会契約論」(中山元訳) 〜主権者とは誰か〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201401010114173
■トマス・ホッブズ著 「リヴァイアサン (国家論)」 〜人殺しはいけないのか?〜
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201312292346170
■「独立宣言と米憲法」(The Declaration of Independence and The Constitution of the United States)
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201401102038235
|