僕は高校生の時になかばドロップアウトしてしまった人間だから、まさかフランスの知識人について語る日が来るなどとは30年来思ったことがなかった。フランスの評論誌に日本の事情を寄稿してみたら、掲載が決まっただけでなく、非常に興味をもって読まれたと編集委員の一人から後で聞いた。その評論誌Les Temps Modernes誌は直訳すれば「現代」となるが、創刊したのはサルトルとボーヴォワールである。サルトルは亡くなる1980年まで、フランスばかりか、世界でも絶大な影響力を持っていた。しかし、死後、「父親殺し」とでも言うようにフランスでサルトル批判が続出し、それはかつてサルトルの実存主義に影響された日本にも届いた。その後、日本でフランスの現代思想を教えている研究者たちもサルトルの評論は一流だが、哲学は二流だ(三流と言っていたかもしれない)と口々に語っていたのを覚えている。
そんな中、孤軍奮闘とでもいうようにサルトルの研究者の海老坂武氏は「サルトル 『人間』の思想の可能性」(岩波新書)の中で、1980年に行われたサルトルの葬儀に驚くほど多くの市民が集まり、道路を埋め尽くしたときの光景を記している。人々がサルトルを惜しんだ最も大きな理由はサルトルが象牙の塔にこもらず、インドシナ戦争から原水爆実験、アルジェリア戦争、ハンガリー動乱、プラハ事件、ベトナム戦争などなど戦後の様々な事件に自ら街頭に繰り出すことも辞せず、勇気をもって取り組んだからだと言うのだ。このことはサルトルが自ら作り上げた哲学の実践でもあった。アクチュアルなものと哲学者が真摯に取り組んでいたということである。海老坂氏は「サルトル」の中で、1968年の五月革命の若者たちが語った「アロンと共に正しくあるよりはサルトルとともに誤ることを選ぶ」という言葉を紹介している。実際、サルトルはその哲学や状況判断でもたくさんの誤りをおかしたのだろう。それでもサルトルは人間が真の人間に向かって歩んでいくことを自分の道として定め、自分にできることを精いっぱいやったのであり、そのことを市民たちが決して忘れていなかったということである。
日々の現実に哲学者として取り組むことの大切さを説いたサルトルは驚くことに自ら1945年に先ほど記したLes Temps Modernes誌を創刊して世界の現実に対して知識人と市民が向き合う媒体を作ったが,1973年にはさらにリベラシオンという新聞を創刊した。これも海老坂武氏の「サルトル」によると、特異な編集方針の新聞だったという。まず、一切、広告をとらず、市民の拠金で基盤を作ったということだ。さらに、通常の新聞のような政治家へのインタビューや記者クラブ発的な記事は扱わず、普通の人々の暮らしの現場にひそむ重要な問題を積極的に取り上げた、ということである。そして、さらに驚くことは編集スタッフの給与は平等で編集室に上下のヒエラルキーすら作らなかったというのだ。主筆などという言葉もなかっただろう。とはいえ、それだけにしばしば編集室では毛沢東派(マオイスト)や様々な左派の意見に分かれ、まとめるのが大変だったらしい。リベラシオンはのちにかなり普通のメディアに近づいていったようだが、それでも1973年から10年くらいはこのように試行錯誤をしながら、奮闘していたということなのである。これは新聞の歴史でも非常に興味深い試みと言えるだろう。サルトルは市民のための市民が発信する媒体を創ろうと考えていたのだ。このことはのちに人口に膾炙するようになった「市民メディア」という言葉の先取りともいえるだろう。
冷戦終結後の現代の視点からサルトルを叩いてゴミ箱にいれるだけではあまりにも惜しい、それが僕の実感である。海老坂氏は「サルトル」で1つのエピソードを記している。それは葬儀の日のエピソードである。
「新聞記事の中で私の心を強くとらえた1つのエピソードがある。病院から出棺の際に、葬儀屋が『御家族の方は前に出てください』とつめかけていた人びとに声をかけた。すると、一人の女性の声が聞こえた。『私たちみんなが家族です!』。この1つの声、そこにいた多くの人間の声を代弁していたかもしれないこの声をどう考えるべきだろう」
※(英紙ガーディアンの記事)”From the archive, 10 March 1973: Jean-Paul Sartre talks about the launch of Liberation” サルトルがリベラシオン紙を創刊した時のことを紹介する記事
https://www.theguardian.com/theguardian/2014/mar/10/jean-paul-sartre-liberation-launch-1973
※サルトルの葬儀 ノーベル賞を拒否した男 Funeral of Jean-Paul Sartre
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201610271123404
村上良太
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