10月26日に日仏会館で「今日文学になにができるのか?」と題するシンポジウムが行われた。いささか大上段のテーマに感じられないこともないが、逆に言えばそのくらい大きな意味を文学に持ってもらいたい。
登壇者はフランスから来日したマリエル・マセ氏(フランス国立社会科学高等研究院)とブランディーヌ・リンケル氏(作家)、そして日本の側は小野正嗣(作家)氏と司会の根本美作子(明治大学)氏である。それぞれみな、興味深い活動をしている人々だが、今回のシンポジウムで中心的なテーマとして浮上したのが難民や移民の問題だった。作家の小野正嗣氏はパリに留学していた時代に難民の支援をしていたパリ大学の教授の家に出入りしていたそうで、小野氏にとっても難民問題はそういう形で身近に見聞した問題だということだが、特に僕が興味深く思ったのは国立社会科学高等研究院のマリエル・マセ氏の発言だった。
今日、私たちはともすると何かにつけ人びとを2分し、「私たち」と「彼ら」という二分法で思考することが多くなっている、とマリエル・マセ氏は言った。フランスにおける難民問題の文脈で言えば「私たち」は昔から定住しているフランス人であり、「彼ら」は新たにやってくる異邦人である。とくにテレビのニュースや番組ではいつも同じ紋切り型の映像とナレーションの決まり文句が繰り返されるばかりで、見る人にものを考えたり、想像したりすることを不可能にしている現実がある。難民のイメージが型にはまっていてあまりにも貧困なのだろう。であるがゆえに、文学はそれとは違ったことができる。「彼ら」に対する観察や想像力を駆使して、「私たち」と「彼ら」を隔てる線を揺さぶることができる、というのである。その線を動かせると言うのである。言うまでもなく、このことは「難民」と「私たち」ということだけに言えるのではなく、もっと様々なことにも援用できるはずだ。
確かに私たちは何かにつけ、2分法でものを考える傾向が強まっているように思う。社会に幅広い「中流」意識が広がっていた昭和時代にはなかった精神の傾向である。昔は今日のようには「私たち」と「彼ら」というような思考モードはあまりなかった。今日、2分法が強まっている背景には貧富の格差が広まっているという事情が背後に潜んでいるように感じられる。かつてはリッチになることは必ずしも貧者を踏みつけにするというニュアンスを含んでいなかった。昭和時代はリッチになった人びとを比較的自然に受け入れることができた。しかし、今日、リッチになると言うことはその背後に存在する多くの貧困者のことを考えないでは済まされなくなりつつある。正社員と非正規という身分の違いも生まれている。富裕層と貧困層の両者は静かにだが互いに敵意を持ちつつある。貧富の格差というテーマ自体は19世紀から20世紀にかけて無数に書かれた。バルザックもゾラもそれを描いた。それは近代化の途上のテーマだった。しかし、今日、フランスのような先進国に再び広がる格差は新たな「私たち」と「彼ら」を隔てる一線を生み出した。だからこそ、この線にとどまっていることを良しとすまい、少なくとも文学に関わる者はその一線を越えていくものなのだと言うのである。
マリエル・マセ氏は難民の問題はすでに欧州においては中心的な位置を占める社会的テーマになっていて文学においてもそのテーマはすでに無視できないと言う。このことも僕は非常に興味深く感じられた。というのも日本においては一般に今日においても難民や移民というのは世界のどこか遠い果てで起きている極めて特殊な事情の人々、という風に受け止められているからだ。
※移民のことをエッセーに書いて出版した時のマセ氏のインタビュー。
https://www.youtube.com/watch?v=XCL0o6unTBQ
村上良太
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