「バッサム・アブー・シャリフって誰?」って言われそうです。 いまどき日本で彼を知る人は、殆どいないかもしれません。 「ヤセル・アラファト元パレスチナ大統領の特別顧問で、1993年のパレスチナVSイスラエル・オスロ和平合意の仕掛人、、」と言っても、アラファトは死んでるし、オスロ和平合意は死に体だし、、筆者もあんなに世話になったのに、殆ど忘れていました。 その彼が、MWN(モロッコ世界ニュース)のコラムに蘇っていたのです。 MWNのコラムニストは2018年12月11日に、「バッサム・アブー・シャリフはサウジアラビアがアラファト暗殺指令を出したと、暴露した」と、シェハブ・ニュース通信のインタヴューを紹介しました。 もっとも、サウジから無視されたモロッコ王国が、サウジアラビア攻撃をするネタの一つとしてバッサム暴露記事を取り上げたようですが、、
(1)バッサムって?: 「管理人が届けてくれた本の小包を開いた瞬間、爆音と火花が飛んだ。何が起こったかわからなかったが、左の目玉が頬を伝い両手の指がぶら下がっている。小包爆弾にやられたんだ。不思議に痛みを感じない。連続爆弾を仕掛けているかもしれない。とにかくこの部屋から脱出しようと、扉を開けた。外気が入ってきたその瞬間、強烈な激痛に襲われ気を失いそうになったが、体を壁で支えて階下に降りた。そして、深い眠りに落ちていった」と、バッサム・アブー・シャリフは、アルジャジーラTVを始め、様々な機会を捉えて1972年にレバノンの首都ベイルートで自身が襲われた、暗殺未遂事件をドラマチックに語る。その頃、バッサムはイスラエルのモサド (イスラエル対外諜報機関) による暗殺を避けるため、ねぐらを毎晩変えていたが、事件の夜は寝るタイミングを逃し、そのまま事務所に早朝出勤していた。 37か所の傷を縫い合わせ奇跡的に一命をとりとめたバッサムは、ジョージュ・ハバシュ率いるPFLP(パレスチナ解放人民戦線)からヤセル・アラファトのファタハ(パレスチナ民族解放運動)へ転向する。PFLPもファタハもPLO(パレスチナ解放機構)の傘下にある。「あなたはテロリストか?」と質問されると、「植民地主義者たちと戦う人は、テロリストと評される。ジョージ・ワシントン、ガンジー、マンデラ、ベトナムの人民、アルジェリアの人民などはテロリストになる。これらの誇り高い人々と並べられのは光栄だ」と、バッサムは答える。この答えは、彼のボス、ヤセル・アラファトの言葉でもある。 バッサム・アブー・シャリフは1946年にエルサレムで生まれた、パレスチナ人だ。1967年に一家はイスラエルに追われ、難民となってヨルダンに脱出した。
(2)初めてバッサムに会ったのは、、: 「アラファト・インタヴューの可能性あり。1989年1月15日から31日の間、チュニジアのアブナワス・ホテルで待機するように」というアラビア語のファックスを、バッサムから受け取った。筆者とカメラマンはTBSカイロ・クルーと合流し、指定された4つ星のリゾート・ホテルで待機した。3週間待たされていたスペインやフランスのTVクルーは諦めてホテルから姿を消していった。4日目にバッサムの秘書ラーイドがホテルに来て、「明日、アラファト大統領と旅に出る。旅行手続きをするから」と、パスポートを取り上げられた。チュニス空港でイラク・エアーに乗せられ、機内で初めて傷跡が生々しく残るバッサムに会った。「どこに行くの?いつ、大統領に会えるの?」と聞くと、「俺が話す以上の情報はない。質問するな!」と、サングラスの片目で睨まれた。秘書ラーイドが、「離陸直前に<ウロウロするな!もう一度爆弾を仕掛けられたいのか?!>という脅迫状が舞い込んで、バッサムはナーバスになっている、、」と、耳打ちした。 そして、最初のアラファト・インタヴューは、バグダッドのチグリス河胖にあるアラファト邸だった。一時間に及ぶインタヴューの後、アラファトは昼食に招待してくれた。キャベツをくりぬいた中に米とナッツと羊の肉とキノコを入れて煮込んだ、イラク式炊き込みご飯が主菜で、野菜のスープにレバノン式サラダが添えられていた。隣に座った私の皿に料理を盛りながらアラファト大統領は、「アラファトが生きている限り、イスラエルに平和は訪れない、、」と、シャロン(後のイスラエル首相)の暗殺宣言を載せた<バグダッド・オブザーバー>紙を見せた。「これが私の人生だ」と、語るアラファト、、その時、筆者はラファト伝記を書こうと決心した。そして、同席していたバッサムに、目で合図を送った。
(3)チュニスの首都・チュニジアで 1994年に<ピースダイナマイト・アラファト伝>を集英社で出版していただくまで、筆者はせっせとチュニジアの首都。チュニスに飛んだ。当時のPLOは、チュニスに拠点を置き、バッサムはイスラエルとのオスロ和平合意に向け、フィクサーとして活躍していた。自らを<ポワソン・ピロット(先導魚)>と称するバッサムの家には、ヨーロッパ人が頻繁に出入りしていた。アラファト・インタヴューのアポをバッサムに任せて、筆者はもっぱら番犬のダニをやっつけたり、PLO幹部の御婦人方にストレッチを教えたりして、待ち時間を過ごした。 1995年、バッサムは<最高の敵>という本を、ウジ・マハナイミという名のイスラエル・モサド高官と共著で出版し、アラブ世界を驚かせた。敵も味方も<バッサムは両面スパイ>と思ったようだ。 アラファトがパレスチナに帰還し、PLO本部が一緒に祖国へ帰った後も、バッサムはイスラエルの警告で、チュニスに残っていた。次に筆者がバッサムに会ったのは、イラク戦争が始まる直前のヨルダン首都アンマンだった。その時バッサムは、「俺は政治から足を洗った。今はビジネスマンだ」と、語った。 その後、ビジネスマン・バッサムは評論や記述に手を染め、2009年には<アラファトとパレスチナの夢>を著した。カタールのアルジャジーラTVなどに出演し、著作と自分を売り込んだ。 翌年2010年4月25日には、アブダビTVのインタヴューで、「元イスラエル首相ダヴィッド・ベン・グリオンがジョン・ケネディ暗殺の責任者だ」とか、「オバマ大統領はイエメン・ユダヤの暗殺標的になっている」とか、語った。 バッサムの近著<アッサマク アル・マリヒ>(アラビア語で塩漬けの魚の意味)には、アラファト毒殺真相を始めとして様々な秘密が暴露されているそうだ。
バッサムと西サハラと、直接の関係はありません。 しかし、両者とも植民地主義からの脱出を目指しています。 両者とも人間の自由と尊厳を尊び、志は同じです。 さらに、西サハラ難民は43年の、パレスチナ難民は70年の長期難民です。 そして、国連が約束した平和解決策の施行を、ひたすら待ち続けているのです。
国連がパレスチナ問題と西サハラ問題を速やかに解決しない限り、世界に平和は訪れないと、心から思っています。
Youtubeにアップした「人民投票」(Referendum)のご案内です。 「人民投票」日本語版 URL :https://youtu.be/Skx5CP3lMLc 「Referendum」英語版 URL: https://youtu.be/v0awSc25BUU
Youtubeに4月アップした「ラストコロニー西サハラ」もよろしくお願いいたします。 「ラストコロニー西サハラ 日本語版URL:https://youtu.be/yeZvmTh0kGo 「Last Colony in Africa] 英語版URL: https://youtu.be/au5p6mxvheo
WSJPO 西サハラ政府・日本代表事務所 所長:川名敏之 2018年12月14日 SJJA(サハラ・ジャパン・ジャーナリスト・アソシエーション)代表:平田伊都子
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